素敵なおバカさん
すきに なるのならすてきなおバカさん
いっしょに あるくなら
すてきなおバカさん
すきになっても きっと(こいしても)
きづかない おバカさん
しおりの口ずさむメロディーが、静かなネット部に木霊する。傑作がデビューしてから、配達ももくじぃが自分でやるようになり、自然とはんせい堂にはしおり一人になることが多くなった。それでも、以前のような黒い靄はしおりの心にかかっていない。お気に入りの恋の歌を口ずさみながら、今日も流れ作業のように、溜まっている仕事をこなしていく。
あたしも あなたのゆめに(いいゆめに)
なりたいな おバカさん
曲を最後まで歌い終えて、しおりはふぅっと息をついた。ちょうど、仕事も一区切りついた所だ。休憩がてらにスマートフォンを手にとって、期待を込めてロックを解除する。
「……まただわ!」
しおりはそう一言声を上げて、それから呟くように「まだだわ」と声を落とした。電車の中でもないのにマナーモードにしているスマートフォンを天井に掲げて、しおりは項垂れるように首を後ろに反らす。
CDデビューを果たした傑作と再会してから、この小さな電子の塊は、しおりのお守りのような物になっていた。たまにどうしようもなく落ち込んで、涙が出そうになっても、アドレス帳に登録されている傑作の名前を見るだけで、しおりの心は穏やかになっていくのだ。
「これでいつでもしおりちゃんと話せるなら、悪くないかなって」
そう言って笑った傑作の声を、しおりははっきりと覚えている。覚えているから余計に、こうして天井を見上げながら項垂れるしかなかった。
しおりが最後に傑作にメールを送ったのは、今から二日も前のことだ。確かに返信を促すような疑問符は使わなかったが、だからと言ってメールが途切れるような内容でもなかった。デビューしたてで忙しい傑作を気遣って、こうして時間を選ばないメールという手段を使っているのに、それすらも無視されたら、しおりはどうしていいかわからない。返信の有無が気になりすぎて仕事にも集中できなくなるから、わざと傑作からの着信だけサイレントにして、休憩時間まではスマートフォンを触らないようにしていたのだ。
「これじゃあ、すてきなおバカさんじゃなくて、残念なおバカさんになっちゃうじゃない」
お気に入りの歌詞に傑作の姿を重ねて歌っていたしおりは、ため息をついて机に顔を伏せた。最近携帯を持ち始めた、時代遅れのアナログボーイ。今まで交わしてきたメールだって、体の指を全部使って数えきれるほど少ないものだ。メールを使い慣れたしおりにとって、この量はあまりにも少なすぎる。五分おきにとまでは言わないが、一日に数回ぐらいはメールを交わしたいのが、全国の恋する乙女の願いだろう。
「もういいわよ、傑作くんなんて」
拗ねるようにそう吐き捨てて、しおりは再びパソコンに向かい始めた。今度はスマートフォンに気を取られないように電源を切って、自分から見えないほど遠い場所へと放り投げる。怒りを集中力に変えたしおりは、もくじぃが驚くほどのスピードで、その日の仕事を片付けた。
「もうっ!いつまで待たせるのよ!!」
数時間振りに息を吹き返したスマートフォンに向かって、しおりは金切り声をあげた。藁にも縋る思いで何度も“新着メール問い合わせ”のボタンを押すが、返ってくる返事はしおりの望むものとは正反対のものだった。
なに?そんなにあたしとメールしたくないの?それとも何か怒らせるようなことを書いちゃった??
焦りを疑問に変えて、しおりは何度読み返したかわからない自分の送信済みメールを見返した。そこには何の変哲もない文章が並んでいて、もちろん傑作の機嫌を損ねるような内容はどこにも書いていなかった。
「最後の猫の絵文字がいけなかったのかしら」
本当は犬派のしおりだったが、傑作のことを考えて、あえて猫の絵文字を選んだのだ。傑作が猫派かどうかは知らないが、リリックと仲の良いことを考えると、猫派とは言わなくても猫好きであることには違いない。
「……まさか、猫好きはリリック限定で、それ以外は見るのも嫌だとか……」
そこまで妄想を働かせて、しおりは自分に呆れるようにベッドに倒れ込んだ。あの大らかを擬人化したような傑作が、そんな下らないことで怒るはずがない。それに、傑作の返信が遅いのは、今に始まったことではないのだ。猫の絵文字が原因と考えるのは、あまりにも馬鹿馬鹿しい。
時刻は既に、夜の九時を回っていた。仕事を早く片付けたしおりは、夕飯どころかお風呂まで済ましている。故に、返信を待つ心を紛らわせるためにすることがない。仕方なくベッドの上に丸まって、ぬいぐるみを抱くように、しおりはスマートフォンを胸に抱きしめた。
「ふつう、彼女からのメールの返信をすぐにしない彼氏がいる?」
彼女・彼氏、という言葉を口にして、しおりは独りで頬を赤らめた。傑作からの返信を待ちわびるくらいに彼に惚れているしおりであったが、未だに傑作を彼氏だと認識すると、こそばゆいような、微妙な気持ちになるのだ。傑作のことを考えると、自然と唇の端が緩んで、他人には見せられない間抜けた表情になってしまう。
「ぼくもしおりちゃんのことが好きだよ」
初めて恋が実ったわけでもないのに、傑作のこの言葉は、しおりを甘い媚薬に漬け込んだようにとろけさせてしまう。歴代の彼氏を思い浮かべても、これほどまでに逆上せてしまうことはなかった。惚れた弱みというものなのか。にやける顔を隠すように、しおりは枕に顔を埋めた。あの日の手の温もりを思い出すだけで、しおりは幸せの絶頂に昇ってしまう。告白の前に見せた泣き顔の恥ずかしさなんて、その幸せを思うと、どうってことなくなるのだ。
「好き、かぁ~。えへへ……へ…………」
マタタビを貰った猫の様にベッドに転がっていたしおりは、急に表情を固くしてベッドから起き上がった。そして、何か重大なことに気がついたように、瞳孔を大きく広げる。
「好きって、まさか……」
まさか、そういう意味。
低い声で呟いて、しおりは慌ててスマートフォンを開いた。甘い気持ちを隠しきれないしおりのメールとは違い、傑作のメールは絵文字も顔文字も使われず、白黒の冷たいものになっている。アナログボーイの傑作くんらしい、と好意的に受け取っていたしおりだったが、よく考えてみると傑作は故意に無機質なメールを送っていたのかもしれない。
例えば、そう。しおりとのメールを早く終わらせるために。
しおりの中のデビルっちが顔を覗かせたとき、面倒なメールを切るために、わざと素っ気ない返事を送ったことがあった。もちろんそれは傑作が相手ではなかったが、同じ手を傑作が使っていたのだとしたら、しおりはとんでもない勘違いをしていたことになる。
あの温厚な傑作くんが、まさかそんな。
自分を落ち着かせるために弁解を試みるが、しおりには傑作に避けられる心当たりがひとつだけあった。それはしおりをとろけさせ、毎日幸せをくれていた、傑作のあの言葉――。
「ぼくもしおりちゃんのことが好きだよ」
もやもやに包まれて自分の物語を見失いかけていたしおりは、その意味を深く聞くことがなかった。自分の中の答えに気がついて伝えたあの告白でさえ忘れてしまうほど、しおりは余裕をなくしていたのだ。そんなときに発せられた「好き」の意味を、しおりは自分に都合良く解釈していた。けれど、よくよく考えてみれば、傑作にその気はなかったのではないだろうか。ただでさえ色恋事に疎そうな傑作のことだ。泣きじゃくるしおりを前にして、しおりの「好き」の意味を恋愛と結びつけられたとは思えない。
「だったら、あたしのしていたことって……」
勘違い女。妄想の先走り。彼女気取りの重たい女。
世の男性が嫌う女トップテンに入りそうな自分の行動に、しおりはへろへろとベッドに倒れ込んだ。倒れた体は力をなくして、ぬか喜びの糠に沈んでしまいそうなほどだ。
にゃおーん。
いつの間にか部屋に入ってきたリリックが、そんなしおりを怪訝に思うように低く鳴いた。自分の早とちりに絶望していたしおりは、猫にこんな話をしても仕方ないと思いつつも、両手を広げてリリックに抱きついた。羞恥と悲哀に叫ぶしおりに抱き潰されそうになりながら、リリックはうにゃおと迷惑そうに唸る。
これは、今度傑作が帰ってきたら、懲らしめてやらないとね。
そう呟いたリリックの声を、しおりが知ることはない。泣き疲れたしおりが眠りに落ちるまで、リリックは尻尾を太く丸めながら、しおりの泣き言に耳を傾けていた。