素敵なおバカさん

 文房具屋の扉を開けると、木枯らしがしおりの体をびゅうっと冷やした。抱えていたコピー用紙を胸に、指先を脇の下に入れて温める。手袋をしているというのに、最近ではめっきり寒くなってしまった。白く色づきそうな息を吐いて、しおりは無言で店をあとにする。
 しおりの腕には、あの日のようなレジ袋はない。文房具屋には相変わらず色とりどりの雑貨が置いてあったが、しおりはそれを買う気にはなれなかった。無機質なコピー用紙だけを手に取り、こうして冬の道を歩いている。
 信号待ちの横断歩道で顔を上げると、あの日のように見慣れたもじゃもじゃ頭が目に入った。けれども、その顔がしおりに向くことはない。真っ直ぐこちらを向いて微笑んでいても、その瞳にしおりは映っていないのだ。
 こんなところにまで、貼ってあるんだ。
 横断歩道を渡って笑顔の傑作に近づいたしおりは、その顔を見つめて息を吐いた。普段よりも少し固い笑みを浮かべる傑作の横には、「福袋商店街が生んだ、期待のフォークシンガー!」の文字が、大きく並んでいる。
 傑作が夢を叶えてから、幾月が経っただろう。オーディション帰りに、はにかみながら報告を受けたあの夜のことを、しおりは眩しそうに思い出す。あの時の傑作の顔は、キラキラ輝いていて、見ているこっちまで幸せで心がいっぱいになった。五四九兄弟も呼んで、すぐさまはんせい堂でお祝いパーティーを始めたもくじぃは、最後には感極まって泣いていた。しおりもその日ばかりは素直にお祝いの言葉を伝えて、笑顔で傑作を送り出したはずだった。
 なのに、どうしてだろう。
 傑作のデビューを伝えるポスターを見つめるしおりの目は、どこか浮かない色をしていた。傑作が夢を叶えたことは、しおりにとっても喜ばしいことだった。流れ星に夢の成功を願う傑作の横で、同じ願いを星に託したこともあった。だから、こんな気持ちになるのは、しおりにとっても不思議だった。浮かない顔をしたまま、正反対の表情をする傑作の輪郭を指でなぞって、しおりは来た道をゆっくりと歩いていく。

 いっしょに あるくなら
 すてきなおバカさん

 だれよりもとおくを みあげてるひと
 ひとにしあわせを ゆずってあげて
 からのポケットにゆめを またつめこむの

 いつか、頭から離れなくて困っていたお気に入りの曲が、今は心に染みてくる。傑作は遠くを見上げているだけでなくて、そのまま遠くへ行ってしまった。もうあの日のように、一緒に歩くことはない。
 ここに留まっているのは、自分だけなのかもしれない。
 足を止めて空を見上げると、既に日が傾きはじめていた。変わらないと思っていた景色も、気づけばだんだんと冬の色を纏っている。
 傑作がデビューしてから、しおりの周りでも変化が起き始めていた。傑作の成功に触発された五四九兄弟は、「ぼくたちも傑作さんのように夢を叶えてみせます!」「今度会うときは、ちゃんとした大学生だからな」と声を揃えて、はんせい堂に寄りつかなくなってしまった。もくじぃは傑作がいなくなった分、少ない仕事ながらも目まぐるしく働き、リリックもどこか寂しそうに、ベランダで星空を眺めていた。
 留まっているだけじゃない。立ち止まっているのは、あたしだけだ。
 木枯らしに顔を歪ませながら、しおりは俯いて地面の小石を蹴飛ばす。傑作や五四九兄弟がいなくなってから、しおりの物語はさらにぐちゃぐちゃに乱れていた。もやもやの答えを求めて見るネットの文字たちが、しおりの耳にこびり付くのだ。二十五歳までに結婚相手を見つけなければ、その先の人生は負け組決定だとか、独身オンナがいかに惨めで寂しいのかとか、理想を求めすぎて何も手に入らなかった人の末路だとか。顔のない人たちが並べた文字が、しおりの心を焦らせる。そうして、どうしようもなくしおりを追い立てるのだ。何の変化もないしおりの日常を、後ろ指を指すように笑い始める。

 社会人になったら、やっぱり職場恋愛ですよね。合コンも良いけれど、普段は意識していなかった同僚の男らしい一面にドキッとしたときに、私はこの人と結婚するんだなって思いました!

 こびり付いた言葉の中で、名前も忘れた見知らぬ女性の経験談が一際大声を出す。普段は意識をしていなかった同僚の、男らしい一面。あの日、傑作が抱えてくれたコピー用紙を、しおりは自分を支えるように抱きしめた。緋色に染まる空を見ていると、なぜだか涙が溢れてくる。外で泣くなんてみっともないと、しおりは頭を振って唇を噛みしめた。今さら答えを見つけたところで、しおりにはどうすることもできない。

「会いたいよ、傑作くん」

 一目あった瞬間に運命を感じることも、未来予想図のように結婚生活を思い描くこともなかった。けれども、好きなのだ。見た目もステータスも、しおりの理想とはほど遠い。それでも、恋しくて恋しくてたまらなかった。手が届かなくなった後に気がつくなんて、あたしはワガママだ。気に入っていたおもちゃを取られたような、そんな感覚なんだろう。
 どんなに言い訳を並べても、溢れてくる自分の気持ちを隠すことはできなかった。不器用で、目立たなくて、鈍くさくて、でも誰よりも優しい心の持ち主。しおりの持っていなかったものを、彼は全部持っていた。自分を貫く強い心。夢を諦めない素直な気持ち。人の幸せを喜べる優しさ。

「しおりちゃんの頼みなら、頑張ってみるよ」

 あの日、しおりがかけた願い事を、傑作はまだ覚えているだろうか。そして、その願いを叶えてくれているだろうか。涙が流れないように空を見上げて、しおりは傑作の姿を思い描いた。笑顔で自分を見つめる傑作に、しおりはもう一度、「会いたい」と呟いた。

「しおりちゃん!」

 そうだ、あの日も傑作くんはこうやって、あたしの名前を呼んで駆けてくれた。そして、あたしの隣に立って、荷物を持ってくれたんだ。

「しおりちゃん、久しぶり!」

 頭の中に蘇る傑作の声が、やけにリアルに響く。懐かしさに顔を正面に戻すと、そこには見慣れたもじゃもじゃ頭が立っていた。けれど、さっき見たような、固い笑顔ではない。いつも通りの朗らかな笑顔を浮かべて、息を切らした傑作が、そこに立っていた。

「けっ……さく、くん?」

 傑作に助けられた時のように、呆けたしおりの声が傑作を呼ぶ。その声を聞いて、傑作はいっそう嬉しそうに微笑んだ。

「良かったぁ、入れ違えにならなくて。はんせい堂に行ったら、コピー用紙を買いに出掛けたって聞いたから、あの時のお店だと思って。ここまで走ってきたんだよ」

 汗を拭う傑作からは、どれほどしおりを探していたのかがはっきりわかる。走るのは苦手だというのに、どうしてここまで来てくれたのだろう。それ以前に、どうして傑作がここにいるのだろう。

「傑作くん……!!」

 疑問符はたくさん浮かぶのに、しおりにはそれを聞くことができなかった。堰き止めていた涙が堤を失ったように溢れ出して、しおりの顔をぐちゃぐちゃに崩した。涙を拭うために両手を上げたせいで、コピー用紙がどさりと地面に落ちる。

「し、しおりちゃん!?」
「傑作くん、傑作くん」

 母親を探す幼子のように、しおりは何度も傑作の名前を呼んだ。初めて見るしおりの涙に、傑作はどうしていいかわからずに両手を所在なく上下に動かした。そんな傑作を気遣うこともできないまま、しおりは泣きじゃくりながら傑作の名前を呼んだ。涙のせいで、手袋が濡れて本来の役割を放棄している。嗚咽混じりのしおりの声は、耳にこびり付いた言葉に背中を押されるように、激しさを増していく。

「あたし、どうしたらいいの?傑作くんも、五四九くんたちも、みんな変わっちゃって、あたしだけ何も変わらなくて、でも、どうやって変わればいいかわからなくて。傑作くんの夢も、叶って、嬉しいのに、寂しくてたまらないの。また、前みたいにみんなで集まりたいの。くだらなくていいから、古臭くていいから、はんせい堂で、みんなと一緒にいたいの」

 もやもやの正体を自覚すると、途端に心が素直になった。今まで馬鹿にしていたものたちが、自分にとってどれほど大事だったのか、しおりはやっと理解した。走馬燈のように、はんせい堂でみんなと過ごした日々が、頭の中を駆け巡る。もう戻れないとわかっていながらも、しおりは黙って自分を見つめる傑作を見上げて、濡れそぼった唇を開いた。

「あたし、傑作くんのことが好きなの」

 言葉になったしおりの気持ちは、可愛らしい告白とは反対に、ガラガラに掠れていた。泣きすぎて、鼻の奥が詰まり始めている。しおりは駄々をこねる子どものように、その場に蹲って顔を隠した。誰に見られたって、傑作にどう思われたって、しおりには関係ない。いっそのこと、このままここに置いていってほしかった。

「しおりちゃんは、そのままで良いと思うよ」

 しおりの考えに背くように、傑作がその場に膝をつく。そうして、しおりと目線を合わせるように首を傾けた。

「しおりちゃんは、可愛くて、しっかり者で、優しい子だから、そのままで良いと思うよ」
「あたし、優しくなんてない。性格悪いもん」
「そんなことないよ。しおりちゃんは良い子だよ」

 優しく頭を撫でられて、しおりの涙腺がまた緩くなる。そんなしおりを穏やかに見つめながら、傑作は言葉を続けた。

「だから、大丈夫。変わっているようでも、みんな案外、元のままなんだよ。ぼくも、CDデビューはしたけれど、この髪型のままだし。五四九くんたちだって、きっと前みたいに、明るくてノーテンキで、でも前向きなふたりのまんまなんだよ」

 傑作の冷えた指が、しおりの熱い涙に触れる。傾いた顔がしおりに近づいて、慈しむように目尻を下げた。傑作の言葉に縋るように、しおりは傑作の目を見つめる。しおりの涙を拭きながら、傑作は目を細めて、にっこりと口角を上げた。

「それに、しおりちゃんは変わってなくなんてない。前に会ったときより、すっごく可愛くなった!」

 いきなり発せられた傑作の言葉に、しおりは大きく目を見開いて立ち上がった。赤くなった目に合わせるように、顔全体が熱をもっていく。その顔を隠すように、濡れた手袋で頬を覆いながら、しおりは傑作を睨みつけた。

「きゅ、急に何を言い出すのっ!」
「あはは、ほんとは会ってすぐに伝えたかったんだけど、しおりちゃんが泣き出すから」
「泣いてなんかいないわよ!!」

 バレバレの反撃をして、しおりは唇を一文字に結んだ。散々泣いてすっきりしたのか、その顔はいつもの勝ち気な表情に戻っている。
 そんなしおりを見て、傑作は嬉しそうに微笑んだ。コピー用紙を拾い、いつかのように片腕に抱えると、しっかりとしおりを見つめて、口を開く。

「それとね、ぼくもしおりちゃんのことが好きだよ」

 再び発せられた爆弾に、しおりは言葉も出せずにぱくぱくと口を開閉させた。自棄になっていたせいで忘れかけていたが、しおりは傑作に告白をしたのだ。しかも、ぐしゃぐしゃの酷い顔で、ガラガラのお婆ちゃんみたいな声で。

「あ、っと……ええええ!?!?」
「さ、帰ろう。しおりちゃん」

 差し出された左手を、しおりは戸惑いながらもそっと握った。そして、はんせい堂に着くまでに顔が直ることを祈って、恥ずかしさを隠すように言葉を紡いだ。

「そういえば傑作くん、なんでここにいるの?歌の仕事は?」

 しおりの質問を受けて、傑作は思い出したようにああ、と呟いた。そして、コピー用紙を抱えたまま器用にポケットに手を入れると、四角い物を取り出した。

「久しぶりにお休みがもらえたんだ。歌手の仕事って、歌を歌えばいいだけだと思ってたけど、今はプロモーョンとかいろいろあるんだね。おかげで、はんせい堂に来るのが、すっかり遅くなっちゃって」

 苦笑いをもらす傑作が、携帯電話をしおりに差し出す。それを見たしおりは、ああっ!と大声を上げた。

「事務所の人に持つように言われたんだ。本当はスマートフォン?っていうのが流行ってるらしいんだけど、ぼくには使えないと思うから……。携帯電話は苦手だけど、これでいつでもしおりちゃんと話せるなら、悪くないかなって」

 今ではめずらしくなったガラケーの、しかも一昔前の機種を掲げながら、傑作は照れくさそうに頬を掻いた。そして、同じくポケットから小さいメモ用紙を取り出して、静かにしおりに差しだした。

「最初に登録するのは、しおりちゃんの番号が良くって。だから、一生懸命走ってきた」

 少年のように無邪気に笑う傑作を見上げて、しおりは腫れが引き始めた目をゆっくりと細めた。差し出された携帯とメモを受け取って、唇の表面をきゅっと合わせる。何気ないことのように伝えられる傑作の言葉が、しおりの心に温かい光を灯した。

「……傑作くん。今はこんなメモじゃなくって、赤外線ってものがあるのよ」

 照れ隠しにそう呟きながら、しおりは傑作の携帯に、自分の番号を登録した。続いて取り出した自分のスマホにも同じように傑作の番号を登録しながら、手書きのメモを愛おしそうに握りしめる。

「帰ったら、ごちそう作らなくっちゃね!今日は五四九くんたちも呼びましょう?なんてったって、福袋商店街が生んだ、期待のフォークシンガーの生ライブなんだから!」

 笑顔に戻ったしおりを見つめながら、傑作はゆっくりと頷いた。すきになるのなら、すてきなおバカさん。いっしょにあるくなら、すてきなおバカさん。久々に聞くしおりの歌声が、傑作の心を穏やかにする。
 変わっていくもの、変わらないもの。見慣れた帰り道を歩きながら、ふたりの笑い声が、楽しげに重なった。