素敵なおバカさん
カタカタとキーボードを叩く音が、静かなネット部に響く。キーボードを打つ音は止まらないのに、しおりの仕事は、予定の半分にも達していなかった。はぁ、と短いため息をついて、しおりはコーヒーを啜りながら口角を下げる。カフェインの取り過ぎは体に悪いのだけど、体に刺激を与えていないと、今日を終えられそうにない。もう一度大きなため息をついて、しおりはスマートフォンのロックを解いた。そして、鬱々とした気分の原因となっているメールを一通読み返す。
しおりへ
この度、前々から付き合っていた彼と結婚することになりました!
近いうちに招待状を送るから、しおりも絶対出席してね!
またゆっくりお話したいな~。
それじゃあ、返信待ってるね!
四行ほどの短いメールに、しおりの心が粉砕したのは言うまでもない。つい最近まで彼氏のいない独り身ライフとか、理想の結婚について語り合っていた友人が、赤いハートマークが散りばめられた、こんなメールを送ってきたのだ。朝イチでこの報告を受けたしおりは、返信も出来ないまま、冴えない顔をして、こうしてパソコンに向かっているのである。
女の友情なんて、所詮こんなものよ。
彼氏が出来たら、絶対に報告する。男なんかより、女同士の方がラクだよね。そんな会話を重ねながら、その言葉にはどれだけ本音が含まれていたのだろう。先を越された焦りと、最後まで何も教えられなかった悲しみが、しおりの心をずたずたに引き裂いていた。
友達の幸せも祝えないようになったら、あたしもとうとうお終いだわ。
いくら心の中にデビルっちが同居しているからと言って、しおりも根っからの意地悪ではない。どちらかと言えばエンジェルちゃんの方が力は強いし、最近ではデビルっちが顔を出すことは少なかった。
「あたし、こんなに性格悪かったかしら」
ぽつりと呟いて、スマートフォンを遠くへ放り投げる。固い音を立てて机に落ちたそれは、しばらく無言で発光したあと、しおりを嘲笑うかのように光を放つのをやめた。
「あーあ、やんなっちゃう」
機械にすら馬鹿にされて、一体どうしたらいいのだろう。
椅子の上で体を揺すりながら、しおりは救いを求めるようにパソコンの検索ボックスに文字を入力した。無料で出来る恋愛占い。社会人の恋の仕方。イマドキ女子の結婚平均年齢……。見飽きた文字列を辿るのも疲れて来た頃、しおりは打ちのめされるように机に頭を伏せた。この手のサイトには、もう数え切れないくらい通っている。その度に一喜一憂して、そして最後にはこうして自分が嫌になるのだ。
社会人になったら、やっぱり職場恋愛ですよね。合コンも良いけれど、普段は意識していなかった同僚の男らしい一面にドキッとしたときに、私はこの人と結婚するんだなって思いました!
都内に住むAさん(仮名)の経験談を最後に、しおりはブラウザをそっと閉じる。高校を卒業して、一人前に社会人をしているしおりだが、所詮は祖父の家業を手伝っているだけだ。うるさい上司もいなければ、常識外れの部下もいない。そのかわりに、ときめくような同僚もいなければ、新しい出会いもないのだ。
あたしの身近な男性といえば……
頭の中に浮かんだ脳天気な三人の顔を思い出して、しおりは深々とため息をつく。そして、さめざめと自分の今の境遇がいかに結婚とほど遠いかを思い憂えて、祖父の真似をしてぐすん、と呟いた。
こんなことじゃ、ロマンス元年がいつまで経っても終わらないわ!!
悲劇の主人公のように両手を広げてみるが、しおりの周りに悲しみを盛り上げる楽団はいない。悲劇を終わらせるために、手当たりしだいに合コンを巡るのも、しおりの性格には合わなかった。どんなにはんせい堂を馬鹿にしようとも、しおりも古書部を営むもくじぃの孫娘。お話の中の素敵な王子様を、いつまでも待ち続けているのだ。
あーあ、もう、ほんっとやんなっちゃう。
口の中で悪態をついたしおりは、そのままサロンにいる傑作を見つめる。陰鬱なしおりとは反対に、傑作は音の出ていない口笛を吹きながら、楽しそうに本の整理をしていた。その姿を目にして、垂れていたしおりの眉がだんだんと釣り上がる。
「傑作くんは暢気よね。人の気も知らないで」
しおりの同僚というべきか、祖父の雇い人というべきか、しおりと傑作の関係は非常に微妙なものだった。普段は仲良くしているが、友達というのもなんだか違う気がする。詳しい年齢は知らないが、傑作はもう三十歳を超えているはずだ。十歳も年上の異性の友達なんて、文字にするだけで間抜けな気がする。
傑作くんは、落ち込んだことなんてないのかしら。
三十歳を超えながらアルバイトという身の上でも、傑作がそれを気にしているところをしおりは見たことがない。同窓会の通知が来ようとも、初恋の人が結婚していようとも、傑作は顔色ひとつ崩さなかった。小学校時代の親友が夢を叶えたときも、素直にその成功を喜んで、夜空を見上げて爽やかに歌ってしまえる人なのだ。
CDデビューの話を蹴ってまで、あの髪型を守る人だもんなぁ。
自分を持っているというべきか、人と感性がずれているというべきか。暢気で朗らかな傑作のことを、しおりは密かに慕っていた。それは、恋というにはあまりに漠然としたものだが、周囲と自分を比べすぎる現代っ子のしおりにとって、傑作の芯の強さは憧れられる部分でもある。
いっしょに あるくなら
すてきなおバカさん
だれよりもとおくを みあげてるひと
傑作にとって、周りがどれだけ出世しようとも、それは他人の物語であって、自分の物語には何も傷をつけないんだろう。他人の物語を読む度に、自分の物語がぐちゃぐちゃに書き換えられるしおりには、その強さが愛おしい。
あたしも傑作くんぐらい、強くなれたらなぁ。
釣り上がっていた眉は、いつのまにか穏やかに緩んで、見守るようなしおりの視線が、傑作を優しく包み込んだ。傑作はそんなことも知らずに、間抜けた音のする口笛を続けながら、合いの手を入れるように鼻唄を奏で始めた。
「まぁ、傑作くんはそんなこと、考えたこともないんだろうけど」
放り投げていたスマートフォンをポケットにしまって、しおりはパソコンの電源を切ってサロンへと足を運んだ。傑作の下手くそな口笛がやんで、尖っていた唇が朗らかに弧を描く。
「しおりちゃん」
「傑作くん、お疲れ様。サロンで本の整理なんてめずらしいわね」
「うん。はじめは古書部でやってたんだけど、机がいっぱいになっちゃって。こっちに運んできたんだ」
サロンの机に丁寧に積まれた本の近くに置いてあった傑作の手を、しおりは静かに見つめる。背高のっぽの傑作に似合う、大きくてゴツゴツした手。けれども、その手で奏でられるギターの音色は、しおりのお気に入りだ。
「ねぇ、傑作くん。いつか夢が叶っても、どんなに時間が経っても、傑作くんは、そのままの傑作くんでいてね」
骨張った傑作の右手を両手で握って、しおりは目線を下げながら額をくっつけた。突然こんなことを言って、変に思われるかもしれない。けれど、それが素直なしおりの願いだった。いつか傑作がCDデビューをして、しおりが誰かのお嫁さんになって、五四九兄弟が大学に合格しても、傑作にはこうやって、暢気に笑っていてほしい。
「そのままのぼくっていうのが、よくわからないけれど」
空いていた左手をしおりの手に重ねて、傑作が優しく微笑む。
「しおりちゃんの頼みなら、頑張ってみるよ」
その声に顔を上げて、しおりは安心したように目尻を下げた。
しばらく見つめ合っていた二人の空気を壊すように、リリックの鳴き声がサロンに響いた。いつから見られていたのだろう。慌てる傑作を余所に、しおりは穏やかな顔でメールの返信画面を開いた。今なら素直な気持ちで、友人を祝える気がする。
送信ボタンを押したあとに、何やらリリックからからかわれるような目で見られている傑作を見つめた。普段の笑顔が崩れて、いたずらが見つかった子どものように肩を竦めている。
「傑作くん、どうかしたの?」
「な、なんでもないよ」
明らかに目が泳いでいる傑作を不思議に思いながらも、しおりは何も言わずにネット部へと戻っていった。鬱々とした雲は晴れて、楽しげな歌声が朗らかに聞こえてくる。その歌声を聞きながら、リリックはサロンの机に乗って、にゃおーんと傑作に向かって鳴き声を上げた。その後の傑作の動作がずっとギクシャクしていたのは、言うまでもない。