素敵なおバカさん
すきに なるのならすてきなおバカさん
頭に浮かんだメロディーを口ずさみながら、しおりはパソコンのキーボードを叩く。文房具屋に行った日から離れないこの歌は、最近では、専らしおりの脳内ソングになっていた。
いきるのが ちょっぴりぶきようなひと
ひとのかなしみは じぶんのいたみ
こっそりだれかのために ながしてるあせ
憧れの人を想って歌った歌なのに、しおりの心はどこか晴れない。もやもやとした気持ちを引きずりながら、しおりは注文のメールを整理して、在庫確認のためのメモを取って立ち上がった。ネット部にも、時折こうやって古書部への注文メールが届くのだ。
サロンを抜けて古書部に行くと、誰の姿も見当たらなかった。もくじぃは商店街の会議に出掛けると言ったことを思うと、傑作は書庫にでもいるのだろう。客もなく閑散とした古書部にため息をつきながら、しおりは本を探すために脚立を運んだ。古臭いはんせい堂は、しおりのセンスに似合わない。いつかはここを取り壊して、お洒落なファッションビルを建てるのがしおりの夢だ。
脚立に登りながら、埃臭い本棚からメモに書いてある本を探す。一番上の段に置いてあったお目当ての本は、この間のコピー用紙に負けないくらい分厚い本だ。
ひとりで持てるかしら……。
一瞬不安に眉を潜ませながらも、しおりはメモをポケットにしまって、本を取るために両手を伸ばした。手の支えを失い、体重が横に偏ったことで、脚立がミシリと悲鳴を上げる。
「きゃああああ!!!」
バランスを崩した脚立は真横へ傾き、一瞬にしてその役目を放棄した。しおりは咄嗟に手を伸ばし、本棚の縁に手を掛ける。しかし、それが災いして、重たい本が本棚から崩れ落ちた。
――落ちる……!!
体を襲う衝撃に身構えて、しおりはぎゅっと目を瞑った。為す術もなく床に叩きつけられた体には、とてつもない痛みが走るだろう。そう思っていたのに、しおりの体が痛みを覚えることはなかった。代わりに硬くあたたかい温もりに包まれて、目の前が暗くなる。耳には、ばらばらと落ちてくる本の鈍い音が響いていた。
本が落ち終わり、古書部が再び静閑に包まれると、しおりを抱いていた影が、ゆっくりと起き上がった。
「けっ……さく、くん?」
唖然とした思考を取り戻したしおりが、呆けたように呟く。その声に、名前を呼ばれた影が、いてて、と笑いながら顔を上げた。
「ああ、危なかった。しおりちゃん、怪我はない?」
「傑作くん!どうして!?」
「書庫から帰ってきたら、しおりちゃんの姿が見えて。声をかけようとしたら、脚立から落っこちるんだもん。慌てて飛び出したけど……怪我がなさそうで良かった」
普段と変わらない朗らかな笑みに、しおりは言葉を失ってただ傑作の顔を見つめる。お礼を言わなければならないのに、どうしてか口が動かなかった。庇われた嬉しさよりも、傑作を襲った痛みのほうが、しおりにははるかに心配だったのだ。
「――!?!?傑作くん!あたま!!」
「え?」
「あたま!あたまから血が出てる!!」
どうにか言葉を紡ごうと開いたしおりの唇から漏れたのは、悲鳴にも似た叫び声だった。きょとんとしおりを見つめ返す傑作の額には、赤い血が筋になって流れていた。
「ああ、本当だ。本に当たって切れたのかな?」
「そんな事言ってる場合じゃないでしょう!?早く手当しなきゃ!!」
傑作の腕の中から立ち上がって、しおりは救急箱を取りに慌てて走った。そうしてぼうっとその場に突っ立っていた傑作の手を引いて、サロンの椅子に座らせる。
「傑作くん、大丈夫?痛くない?」
「これくらい大丈夫だよ。そんなに深く切れてないし。……いてっ、消毒液のほうが、ちょっと痛いかな」
相変わらず暢気に笑う傑作を見て、しおりは泣き出しそうになった。元はと言えば、自分のミスだ。あそこで無理をせず、傑作やもくじぃの手を借りていれば、傑作は怪我をすることはなかった。
傷の手当てを終えて黙り込んだしおりを、傑作は不思議そうに見つめていた。額に当てたガーゼには、まだ薄く血が滲んでいる。俯いたままのしおりの顔を覗き込み、傑作は軽く小首を傾げた。
「しおりちゃん、どうしたの?」
「……ごめんなさい、あたしのせいで、こんな……」
「気にしないで。ぼくはほら、この髪型だから衝撃がだいぶ和らいだんだよ。やっぱりこの髪型、変えないでいて良かったぁ」
場違いな感想をもらす傑作に、しおりは眉間の皺を解いて、ほっとした顔で傑作を見つめた。傑作の天然さも、今ではしおりの救いになっている。
「でもほんとう、しおりちゃんに怪我がなくて良かった。女の子に傷がついたら、大変だもんね」
「えっ……!!」
突然言われた台詞に、しおりは思わず頬を赤らめた。そして、普段は見上げている傑作の顔が、自分の顔のすぐ真下にあることに気がついた。傷の手当てをしているときは、必死で何も考えていなかったが、改めて意識すると、傑作との距離がかなり近いことに気づく。
傑作くんの顔、こんな間近で見るの、初めてかも……。
心の中で呟いた言葉に、しおりは赤い頬をさらに赤くして両手で押さえた。自分の不注意で人を怪我させたあとに、こんなことを考えるのはあまりにも不謹慎だ。
救急箱を片付けて、しおりは傑作の顔を見つめた。さっきまでとは違って充分な距離をとって、けれどもしっかりと傑作を見据える。
「ありがとう、傑作くん。あたしのこと、助けてくれて」
語尾が掠れたしおりの礼の言葉を受け取ると、傑作は何か言うように口を開いた。けれど、言葉がしおりに伝わる前に、古書部から聞こえた大きな悲鳴に掻き消された。
「な、なんだ~!?!?本棚がめちゃくちゃに荒らされて!!まさか泥棒の仕業っ!?しおりぃ!傑作ぅ!リリックぅ!!どこにいるんだぁ~!!みんな無事かぁ~!?」
泣き声のようなもくじぃの声に、しおりと傑作は顔を合わせて笑い出す。その笑い声に気づいたもくじぃが、傑作の頭の怪我を見て叫び出している間、しおりは頭に流れ続けていた歌の言葉を思い出した。
すきに なるのなら
すてきなおバカさん
いきるのが ちょっぴりぶきようなひと
ひとのかなしみは じぶんのいたみ
こっそりだれかのために ながしてるあせ
すきになっても きっと(こいしても)
きづかない おバカさん
ついに泣き出したもくじぃを慰める傑作を見て、しおりは澄んでいく自分の気持ちに気がついた。もやもやとしていた歌の意味が、なんとなく、わかった気がする。
いつものような笑顔に戻ったしおりは、傑作の隣に並んでもくじぃに笑みを向けた。騒ぎに古書部の様子を覗きに来たリリックが鳴き声を上げるまで、しおりと傑作は、泣き止まないもくじぃを慰め続けた。