素敵なおバカさん

 顔にあたる眩しさにうなされるようにして、しおりはゆっくりと目を覚ました。カーテンを開けっ放しのまま寝ていたしおりの部屋には、朝日が煌々と差し込んでいる。
 寝起きのぼやっとした目玉を動かして、しおりは部屋の様子と自分の姿を想像した。昨日は、そうだ。散々傑作との幸せを想像したあと、自分の盛大な勘違いに気がついて、リリックを抱きしめながら眠ってしまったんだ。しおりの悲劇に付き合わされたリリックは、いつの間にやら腕の中から消えていた。扉にリリックの通れそうな隙間が少しだけ空いているから、頃合いを見計らってしおりの腕から抜け出したのだろう。
 無表情に固まりながら、しおりはむっくり起き上がった。涙の跡が渇いて、頬の皮膚が硬くなっている。きっと、瞼も醜く腫れ上がっているのだろう。せめて顔を洗ってこの体たらくをどうにかしようと、しおりは鉛のような足を床へと着き立ち上がった。けれど、動く気にはなれない。死んだ魚よりも光を失った視線をあげて、しおりは窓の外を覗いた。水色の絵の具で塗りたくったような、見事な青空がそこには広がっている。
 青空は大好きだけど、今日の空は嫌いだわ。
 青い空は、あたしの恋の色。そんな甘い恋を歌った曲を思い出して、しおりは自嘲気味に片頬を釣り上げた。こんなしおりの気持ちと正反対の明るい空が、しおりの恋の色であるはずがない。
 しおりは足を引きずりながら、机の椅子に腰掛けた。泣き疲れたのと、寝過ぎたのと、言いようのない空しさから、何にもやる気が起きない。今日が休日で良かったと、しおりは冷たい机に頬をくっつけた。こんな状態で仕事をすれば、盛大なミスを連発するに違いない。

「残念なおバカさんは、傑作くんじゃなくてあたしだったのね……」

 昨夜の惨状を思い出して、しおりはまた嘲笑を浮かべた。幸せの絶頂から不幸のどん底に突き落とされた気分だ。引き攣っていた口角を下げて、再び無表情に戻ったしおりは、静かに引き出しを開けた。そして、子どもの頃から宝箱として使っている、赤いお菓子の缶を取り出した。
 その中に入っていた、傑作らしい丁寧な字で書かれた、十一桁の数字とメールアドレスを見る。何度も取り出しては見つめていたせいで、紙の端は少し縒れている。そのメモを見つめていると、渇いていたしおりの顔に、また涙が戻ってきた。やまない雨はないってよく言うけれど、やまない涙はあるんだわ。と、しおりは唇を噛みしめた。
 一体いつから、こんなに傑作のことを好きになったのだろう。『坊ちゃん』の最初の一行も知らない傑作が、「すてきなおバカさん」であるわけがないと思っていたあの頃は、傑作を恋の相手として見ていなかったはずなのに。  しおりはメモを胸に当てて、膝を抱えて瞼を閉じた。自分の恋心を思い出してみるけれど、はっきりと答えが出ることはなかった。傑作への想いを自覚したのは最近のことだけれど、その前に、傑作に恋に落ちている瞬間が、必ずあるはずなのに。
 そんな瞬間がいらないくらい、あたしは傑作くんに惹かれていたのね。
 恋に落ちる音が聞こえた恋愛は、しおりの経験ではいつも上手くいかなかった。その音が聞こえた瞬間だけの相手に恋をしてしまったから、その後の理想と現実のギャップに辟易してしまうのだ。
 しおりは目を開けて、透き通るような青空を見上げた。見ているだけで、自分が何なのかわからなくなってしまうくらい、遠い向こう側まで広がっている。しおりはその壮大さに傑作の笑顔を重ねて、そして寂しげに微笑んだ。じりじりと、じわじわと、しおりの中で、傑作の存在は欠かせないものになっていたのだろう。それは、いつも自分の上に広がっている青空のように。普段は気にも留めないのに、曇り空や雨空になって、初めて青空が恋しくなる。いつも優しく見守ってくれているのに、しおりだけの物になることは、決してないのだ。
 しおりはメモを机に置いて、缶の中にもう一度手を入れた。そこに入っていたCDを見つめて、しおりは胸がつまりそうになる。十年以上もの間追い続けた傑作の夢が、しおりの手の中で光っている。CDが擦り切れそうなほど聞いて、音楽プレーヤーにも落としたその歌は、青空のような傑作にぴったりな爽やかな曲だ。歌の中の傑作を真似て、未来が見える空に、明日の自分へ手紙を書いたことだってある。

「やっぱり、好きだなぁ」

 歌詞カードの詩を目で追いながら、しおりは確かめるように呟いた。しおりは傑作のことも、傑作の歌声も大好きなのだ。あんな素敵な歌声を、はんせい堂の中だけで終わらせるのは勿体ないと、毎日のように思っていた。それだけに、傑作の夢が叶ったときは、本当に嬉しかった。例えそのせいで傑作に以前のように会えなくても、恋心が空回りしようとも、傑作の夢を奪ってまでここに戻ってきてほしいとは思えないのだ。

 シソ ファソファミ

 穏やかなしおりの気持ちを助けるように、しおりの大好きなピアノの曲が流れてきた。フレデリック・ショパンの作った、夜想曲Op9-2。繰り返し変奏される旋律が美しい、「日本で一番有名な夜想曲」の名に相応しい名曲だ。

 シソ ドドソシラ

 曲が四小節目に差し掛かろうとした時に、しおりは飛び起きるようにして椅子から立ち上がった。そして枕の横に転がっていたスマートフォンを掴むと、目を見開いて画面を見つめた。
 ――傑作くん!
 ショパンの奏でる夜想曲は、傑作専用に設定した電話の着信音だ。息が止まりそうな思いで通話のボタンを押しながら、しおりはスマートフォンを耳に当てた。

『あ、しおりちゃん?』

 久々に聞く傑作の声が、しおりの鼓膜から心臓に直接響く。思わず背筋を伸ばし、しおりは素早く瞬きを繰り返した。

『もしもーし、しおりちゃん?聞こえてる?』
「あ、はい。聞こえてる!聞こえてます!」
『ああ、良かった。久しぶりだね、しおりちゃん』

 それは、メールを送り続けたしおりに対する嫌みなのか。ムカッと声に出しそうなのを抑えて、しおりは大きく息を吸い込んだ。

「久しぶりね。急にどうしたの?電話なんてめずらしい」
『うん。実はさ、またお休みがもらえたんだ。だから、はんせい堂に寄ろうかなって思ってるんだけど、その前にしおりちゃんに会いたくて。もうすぐ福袋商店街に着くんだけど、今から会えないかな?文房具屋近くの公園、寒いけれど、ビルが近くになくて空がよく見えるんだ』

 流れるような傑作の声に、しおりはスマートフォンを手の平から落としそうになった。ぽかんと開いたままの口を閉じて、しおりは慌てて鏡を確認した。顔も洗ってない寝起きのまんまの酷い姿が、そこには映っている。最悪だ。よく見れば寝癖がついて髪の右側だけ膨らんでいる。こんな姿で、傑作に会えるわけがない。

『しおりちゃん?都合、悪いかな?』

 スマートフォンから聞こえる傑作の声色が、落ち込むように低くなった。その声に、しおりは弾かれたように返事をする。

「ううん!行ける!すぐに準備するから、ちょっと待ってて!!」

 こんなチャンスを、逃すわけにはいかない。しおりは電話を切ると、猛スピードでシャワーを浴びて、服を着替えて顔を整えた。お気に入りの赤いリボンもしっかり結んで、鏡の前で姿を確認するように一回転する。

「よしっ!」

 意気込むように握り拳を胸の前に掲げたあと、しおりは駆け足で玄関を飛び出した。その姿を見つけたリリックは、訳知り顔でしおりの後ろ姿を見つめ、尻尾を振りながら部屋の奥へと消えていった。