ただひとつ希う
岩に額を押しつけて、強く瞼を閉じる。脳裏に浮かんだ師匠の顔が、シャボンのように何度も浮かんでは弾けていった。どうしてこんなことになってしまったんだろう。
縋るように抱きついた岩肌が、体温を奪っていく。身震いするくらいに身体が冷えていくのに、そこから離れる気にはなれなかった。このまま、私ごと凍ってしまえばいい。
何も考えたくないのに、頭は師匠のことばかり考えていた。
何もわからないまま、不穏な情報だけが増えていく。どこまでが本物で、どこからが偽物なのかわからない。ただひとつ確かなのは、師匠はここに帰ってきていないということだけだ。
「ホタル様」
背中越しに名前を呼ばれ、ゆっくりと振り返る。憂わしげな表情の遁兵衛が、静かに佇んでいた。
「そんな薄着では風邪を引いてしまいます。砦に戻りましょう」
何もなかったかのように振る舞う遁兵衛に嫌気が差して、顔を背ける。
あれほど信頼していた遁兵衛が、知らない人のように思える。師匠を信じたい。ただそれだけなのに、宇宙の外に放り出されたような孤独感が襲ってくる。
冷たかったはずの岩肌は、いつの間にか温く暖まっていた。
――少し、ここで待っていてくれないか。
師匠の優しい声が、胸の奥から響いてくる。
――霧隠れの暗部に会う。もう逃げるのはやめだ。お前との旅の許しを得る。
その言葉を信じて、今まで待ってきたのに。
「師匠は、私を何度も守ってくださいました」
呟くように落とした言葉が、地面に吸い込まれていく。
「師匠がいなければ、私はあの時――」
「わかっております。ウタカタ殿がいなければ、ホタル様の命も、私たちの命もなかった」
覆い被さった遁兵衛の声に、唇を噛みながら振り向く。
それなら、どうして。
逸らされた視線を思い出し、胸に入った
「ホタル様のお気持ちは痛いほどわかります。ですが、……それ以外にウタカタ殿が帰ってこない理由が思いつかないのです」
高ぶる感情を抑えたような震える声に、遁兵衛の顔をじっと見つめる。見慣れた顔が、苦渋に歪んでいた。
閉じていく瞼に合わせて、遁兵衛が言葉を繋ぐ。
「ウタカタ殿のいた霧隠れは、かつて血霧の里と呼ばれたほど排他的な里でした。抜け忍に対しても、非常に厳しい処罰が行われていたと聞きます」
嫌な汗が、こめかみを流れ落ちる。この先は聞いてはいけない。そう思った時にはもう遅かった。
遁兵衛の声が、静かな草原に重く響く。
「……ウタカタ殿が逃げ出しても、何もおかしくはないのです」
隠していた嘘を見破られたときのように、心臓が逆さまに叫び出す。
ウタカタ師匠が、逃げた。
信じたくなかった。そんなこと、考えたくもなかった。
けれど、私だってわかっている。だから、こんな簡単な問いにも答えられない。
――どうしてウタカタは帰ってこないんだ?――
叔父さんが、遁兵衛が、自分自身が、黒目を光らせながら問い詰める。その視線から逃げるように、
師匠が弟子を見捨てて逃げ出すなんて、そんなこと、ありえるはずがない。
「師匠はすぐに戻ってくると言ったんです。ウタカタ師匠が、嘘をつくはずがありません」
「ホタル様……!」
「お願いです。遁兵衛。私に旅に出る許可をください。待っているだけなんて、もう耐えられないのです。私が師匠を、自分の手で見つけてみせます」
「それはできません。今がどれほど危険な情勢か、先ほどお聞きになったばかりでしょう」
「それでも!!……それでも私がいかなければならないのです!例え危険な目に遭っても、私は師匠を――」
「ホタル様まで失うわけにはいかないのです!!」
悲鳴のような怒声だった。荒げた声とは反対に、泣き出しそうに歪んだ遁兵衛の顔が、刻まれた皺に埋もれていく。
こんな顔をする遁兵衛を見たのは初めてだった。生まれたときから、物心ついたときから傍にいたのに、こんな悲しい顔は見たことがなかった。
肩で息をする遁兵衛が、倒れないのが不思議だった。悔しさを握りしめた拳が、細かく震えている。あまりの衝撃に言葉を失い、ただ呆然と、遁兵衛を見つめる。
荒い息が治まりやっと続いた言葉は、蚊の鳴くように小さかった。
「役行者様が亡くなってから、私にはホタル様だけでした。あの日、盗賊に襲われたときに誓いました。私はホタル様を、この命に代えてもお守りすると。しかし悲しいことに、私ももう老齢。ホタル様の護衛をするほど、力はないのです」
遁兵衛の目が、泣き出しそうに見開かれる。そして唐突に、悲しみと恐怖が湧き上がってきた。
見慣れた遁兵衛の身体が、小さく、弱々しく、佇んでいる。
いつかやってくる孤独を、まざまざと見せつけられた気がした。そして同時に、自分の行動が遁兵衛をそれに近づけていることを、痛いほどに理解してしまった。
「禁術がなくなった今、ホタル様を脅かすものは何もない――否、あってはならないのです」
縋るような視線だった。その視線に逆らうことは、できなかった。
静粛が訪れた。風の音も、鳥の声も、何ひとつ聞こえない。
先に口を開いたのは遁兵衛だった。砦に戻りましょう。初めに言われたように、何事もなかったような声だった。
「ひとつだけ、教えてくれませんか」
私は、師匠を捜しに行くことすらできない。
打ち砕かれた心が、バラバラになって辺りに散らばる。呟いた言葉は、その破片のように鋭かった。
背を向けようとした遁兵衛が、こちらを見つめる。
「叔父さんの言っていた、師匠が里に追われるもうひとつの理由――それを教えてくれませんか」
顔を見なくとも、遁兵衛が渋い顔をしているのがわかった。
このまま全てをなかったことにするなんて許せない。
私の意思を読み取ったのか、沈黙の後に、遁兵衛が私に向き直る。
重い口が語った師匠の境遇に、目が眩んだ。どこか遠くの、名も知らない赤の他人の話だと思いたかった。けれど、真剣な遁兵衛の表情が、そんな期待を一瞬にして砕いてしまう。これは紛れもない、ウタカタ師匠の真実だ。
――人は持て余す力を持てば、そこには苦しみしか生まれない
ウタカタ師匠は、あの日、どんな気持ちでその言葉を発したんだろう。
涙が一筋、頬を伝うのがわかった。師匠の苦しみと優しさが、今更になって伝わってくる。
師匠は誰よりも、私のことを理解してくれていたのに。私は師匠のことを、何もわかっていなかった。
――何が秘術だ!何が一族だ!何が師匠だ!身勝手な連中が、従うだけの人間に平気でこんな無残な真似をしやがる……。
抱き寄せられた肩の温かさを思い出して、胸が痛くなる。
師匠が里を抜けたのも、お師匠様に手をかけてしまったのも、全部それが原因なのだろうか。
わからない。全てを知りたいと藻掻くのに、落ちてくるのは散り散りになった師匠の断片だけだ。
人柱力。新たに加わった師匠の呼び名に、虫酸が走る。そんな力が欲しいがために、追い忍たちは、師匠を苦しめていたのか。初めて会ったとき、師匠は傷だらけだった。あの傷は、一体何度目の怪我だったのだろう。
――人に付け狙われるような人間に教えてもらったことを、後で後悔するようになるかもしれないぞ。
師匠は知っていたんだ。知っていて、私を遠ざけようとしていた。
浮かんでくる記憶を裏付けるように、人柱力という言葉が師匠に重なる。そしてほぼ同時に、思ってしまった。師匠が逃げ出しても仕方ないと、諦めてしまった。
「……ウタカタ殿は、自分の周りには死神がうようよ寄ってくると言っていました。彼がホタル様を利用したとは思えません。しかし……追い忍の目を眩ますのに都合が良かったことも、事実なのです」
遠慮がちに呟く遁兵衛に反論する気は、もう起きなかった。
ただひとつ、師匠を信じ切れなかった自分が、許せなかった。
「ウタカタ師匠は、今、どこにいるのでしょう」
答えのない問いかけは、どこへ向ければいいのだろうか。
目を閉じると、暗闇の中に師匠の背中がぼんやりと浮かんだ。
師匠を疑ってしまった私に、こんなことを思う資格はないのかもしれない
でも、願わずにはいられなかった。
あの日、私を弟子だと認めてくれた言葉は、本物だったのだと。
遠ざかっていく背中に手を伸ばす。
声を振り立て名を叫んでも、その姿が振り返ることはなかった。