それでも伸ばさずにいられないこの手
幻のような人だった。ふらりと現れたと思ったら、音も立てずに消えてしまった。あんなに傍にいたのに、私の周りに、ウタカタ師匠の痕跡は、何一つ残っていない。見上げた空はどんよりと曇り、今にも雨が降り出しそうだった。足跡を作る代わりに、乾いた花弁が
我ながら浅はかだとはわかっていた。けれど、止めることはできなかった。
約束の場所に立つ岩を見つめる。何度も打ち砕かれたというのに、性懲りもなく、私は師匠が帰ってくるのを待ち続けていた。
冷たい風が髪を揺らす。花弁を失った花は茶色く朽ちていく。
目を閉じると、鮮やかに蘇る。花は潤いを取り戻し、空は青々と澄みわたり、その向こうには、待ち焦がれたあの人が、優しく佇んでいる。その姿に駆け寄ろうと、息を吸い込む。冷たい風が全身を包んだ。
「役行者の孫娘とは、お前のことか」
静粛を打ち破る、鋭い声だった。はっと顔を上げたときにはもう遅い。見覚えのある仮面を付けた男に前後を塞がれ、身動きが取れなくなっていた。突然の出来事に、上擦った声が口から漏れる。
「何なのですか、一体……」
「お前に話があって来た。ウタカタの消息について、ずいぶん嗅ぎ回っているようだな」
仮面の男から紡がれた師匠の名前に、思わず顔を顰める。顔を覆う仮面のせいで、この男があの日師匠を連れ戻そうとしていた人と同一人物かはわからない。けれど、冷たい物言いと反論を許さない重苦しい雰囲気は、あの日と一緒だった。追い忍に捕われ苦しむ師匠の顔が、脳裏を過ぎる。
「あんたはウタカタとどういう関係だったんだ?」
冷えた視線が、私を貫く。一瞬、息が止まった。
「私は、ウタカタ師匠の弟子です」
精一杯、声を張ったつもりだった。なのに、無残にもそれは嘲笑されてしまう。
「弟子?自らの師を殺めた男が、里を抜けて弟子を取っていたのか?」
馬鹿にするような物言いに、怒りを覚えて顔を上げる。そんな私をものともせず、仮面の男は私をじっと見つめ返した。
「奴は師匠殺しのウタカタ。数年前に里を抜けて、我々追い忍が行方を追っていた。だが、奴を追っていた班と連絡が取れなくなった。直前に来た連絡では、ウタカタを巡って、木ノ葉の忍と交渉中だと言っていた。――あんたがいたおかげでな」
仮面越しに感じる鋭い眼光に、戦いて息を飲み込んだ。言いようのない恐怖が突き上げてくる。
何も言わない私を責めるように、仮面の男は懐から何かの欠片を取り出した。べっとりと付いた錆色が、血の色だと理解するのに数分かかった。意味がわからないという風に、視線だけで問いかける。
「――ツルギたちの連絡が途絶えて数日後だ。森の中で、血まみれの仮面が見つかった」
男の声が怒りを帯びていく。
「大方、ウタカタに殺られたのだろう」
瞳孔がゆっくり開いていくのを感じた。目の前の血の色と、師匠の笑顔が重なって警報を鳴らす。
「何を……何を言っているんですか!師匠がそんなことをするはずがありません!あの日師匠は、私との旅の許可を得るために、ツルギさんの元へ向かったのですよ!?」
「その話し合いが拗れて兄弟子に手をかけた。容易に想像できることだ」
私の必死の反論も、あっさりと無下にされてしまった。あまりの悔しさに、恐怖も忘れて追い忍に詰め寄る。怒りが身体を這い上っていく。背後にいた男が、慌てたような声を出した気がした。でも、それに構う余裕はなかった。
「ウタカタ師匠は、そんな無思慮な方ではありません。大体、あなたたちが無理矢理師匠を連れ戻そうとするから、こんなことになったんです。本当にそう思うなら、早く師匠を見つけて話を――」
「ウタカタは死んだ。奴が弁解する方法は、もうどこにもない」
どくんと心臓が大きく高鳴り、血の気が引いていく。全ての音が止み、心が冷えて石のようになる。
遠くで雷が鳴った気がした。ぐるりと目眩がし、どちらが上かわからなくなる。体の中から何かが落下していくのを感じた。
「死んだ……?うそ、変なことを言わないでください」
「本当のことだ。ツルギたちの捜索が始まる数日前に、六尾が暁に狩られたという情報があった。もうふた月も前のことだ」
ろくび。
あかつき。
かられた。
唇がわなわなと震えていく。立っているのがやっとだった。知らなかったのか。と男の声が振ってくる。
瑞々しく咲いていた花は朽ち、曇天は不吉な色に染まっていた。優しくこちらを見つめる師匠の顔が、不気味に歪んでいく。
どうして。喉の奥から、泣き声のような呟きが漏れた。
「……まあいい。その様子だと、お前は人柱力についても何も知らないようだしな。おい、そろそろ行くぞ」
離れようとする男の服を、両手で掴んだ。震えた腕に、雨粒が落ちる。
「……ない、で――」
歪んだ師匠の身体が、靄のように消えていく。
私が師匠を信じられなかったから、師匠は死んでしまったのか。
私があのとき、師匠を独りにしなければ
弟子入りを乞わなければ
砦に連れていかなければ
「そんな言葉で、あの人を呼ばないで……」
誰にもわからないと思っていた。里のため、師匠のためとこの身を捧げ、全てを犠牲した人間の気持ちなんて、わかるはずないと思っていた。
どうして気づけなかったんだろう。私と同じ苦しみを抱えた人が――それ以上に苦しんでいる人が――目の前にいたのに。
「あの人は兵器なんかじゃない。道具なんかじゃない。あの人は、師匠は、ウタカタ様は――!!」
仮面の男に掴みかかろうとする私を、背後の男が慌てた様子で引き剥がした。地面に強く投げ出され、鈍い呻きが漏れる。
何も知らないままでいたかった。そうすれば、私は師匠を、ずっと待つことができたのに。
喉の奥が熱く爛れる。降り出した雨に混じって、涙が頬を伝っていく。
ヒッと甲高い声が喉に貼りついた。
長い悲鳴を、上げた。