果たせなかった約束
音を立てないように障子を閉め、長い息を吐いた。辺りに誰もいないことを確認して、あの日より重くなった背負い袋を持ち上げる。掴んだ背負い紐に重心を取られた身体が、バランスを崩してふらつく。その頼りなさが、これからの私を予言しているように感じた。一人旅にどれだけの荷物が必要になるのかわからなかった。子どもの頃から、他里へ行ったことはない。私の知る世界は、この砦と土蜘蛛の里だけだ。
遁兵衛は、私の申し出に最後まで首を縦に振ってくれなかった。それでも、ただ待っているだけの日々に耐えることはできなかった。
師匠と別れてから、もうひと月半が経っていた。その間、なんの音沙汰もない。ただ只管に言いつけを守るには、月日が経ちすぎていた。遁兵衛が許してくれないのなら、隠れて行くしかない。
玄関までの廊下が、途方もなく遠く見えた。
音を出さないようにと神経を尖らせた爪先が、固く強ばる。
息を潜めているはずなのに、心臓は走った後のようにけたたましく鳴っていた。
師匠は霧隠れにいるのだろうか。もしそこで会えなかったら、私はどこへ師匠を捜しに行けばいいのだろう。
焦る気持ちが思考を分散させ、集中力を鈍らせる。甲高く啼いた床に、私の名を呼ぶ声が重なった。
「……どこへ行くおつもりですか。そんな大荷物を抱えて」
じっと私を見据える遁兵衛は、怒っているのか呆れているのか、感情が読み取れなかった。
言い訳のできない状況に、最後の期待を込めて懇願する。
「遁兵衛、どうか許してください。私は――」
「ホタル様が霧隠れへ行く必要はありません」
言い終わることなく捨てられた期待に、言い返すことも出来ず口を噤む。
矢継ぎ早に繋がれた遁兵衛の言葉に、私は黙ってついていくしかなかった。
「先ほど頭領がお見えになりました。――ホタル様が知りたいことも、わかるはずです」
久しぶりに会った叔父さんは、私の顔を見て何気ないように微笑んだ。それに応えたいのに、私の口角は素直に上がってくれない。
師匠と旅に出ると言ってからも砦に留まり続ける私を、叔父さんがどう思っているのか聞いたことはなかった。叔父さんは良くも悪くも、私のことに無関心だった。旅に出ようと砦にいようと、叔父さんにとってはどうでもいいことなんだろう。
客間に座る叔父さんの前に正座をし、じっとその顔を見据えた。
叔父さんが自ら師匠の事を調べるとは思えない。大方、砦を出ようとする私を見かねた遁兵衛が頼んだのだろう。
どうして叔父さんなんかに、と澱んだ感情が胸を覆う。それが顔に出ないように、平然を装ってゆっくり瞬きをした。
「遁兵衛から聞いたよ。ウタカタさんを捜しているようだね」
「……叔父さんは、霧隠れへ行ったのですか?」
「ああ。ただその前に、ホタルに話しておかなければならないことがある」
叔父さんの笑みが崩れ、深刻な表情へと変わる。数秒の沈黙が、永遠のように感じた。
「――ひと月ほど前に、木ノ葉の里が暁という組織に襲われたらしい。里は壊滅状態だそうだ。それを受けて、先日鉄の国で五影会談が行われたそうだ。内容は定かではないが、もうすぐ第四次忍界大戦が始まると噂されている」
想像もしていなかった話に、時が止まったかのように動けなくなる。言葉を追うように内容を反芻し、理解すると同時に全身に鳥肌が立った。
同じように繰り返していた毎日の裏で、そんなことが起きてきたなんて思いもしなかった。ナルトさんは、木ノ葉の人は、どうなってしまったんだろう。焦って問いかけるけれど、叔父さんは首を横に振るだけだった。
「詳しい情報はわからなかった。ただ、こんな危険な情勢だ。ホタル一人で旅に出ることを許可できない」
全てはここに行き着くのだと、大きく吸い込んだ空気が口の中を苦くした。
叔父さんの後ろで、遁兵衛が静かに私を見つめていた。反論を許さない強い視線に、思わず顎を引く。嫌な汗が、こめかみから滑り落ちる。
心臓が弾けそうなくらいに脈打っていた。並べられた不穏な情報に、師匠の後ろ姿が浮かぶ。その思考を読んだかのように、叔父さんは話を続けた。
「それから、ホタル。お前の師匠のことだが」
叔父さんは言葉を続けず、懐から取り出した小さな冊子を私に差し出した。黙ってそれを受け取って、一枚一枚ページを捲る。そして、真ん中辺りでつっと息を呑んだ。
心臓が、これまで聞いたことがないくらい早く騒ぎ立つ。細かく震える指先に、冊子を落とさぬよう力を込めた。力みすぎた指先が、紙に大きな皺を作る。
待ち焦がれていた私の師匠が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。これがビンゴブックの写真でなかったら、どれほど嬉しかっただろう。
「――ホタルはこのことを知っていたのかい?」
叔父さんの低い問いかけに、記憶の中で、追い忍の言葉が反芻する。「奴は師匠殺しのウタカタ。里を抜けた大罪人だ」。
忘れた訳ではなかった。でも、考えないふりをしていた。師匠が罪人だろうと、追われていようと、私には関係のないことだった。
だから、師匠と旅に出ると叔父さんに伝えたときも、私は何も言わなかった。
土蜘蛛に留まるつもりは更々なかった。砦に戻ろうとした私を旅に誘ってくれたのは師匠だ。私はその誘いに、飛びつくように頷いた。
師匠は私を弟子と認めてくれた。私には、それが全てだった。
師匠は捕まってしまったのだろうか。旅に出る許可も得られず、私に文を飛ばすことも出来ずに、狭い牢獄で過去の過ちを悔いているのだろうか。
頷いた私に、叔父さんは露骨に怪訝な顔をした。どうしてそんな人と旅に出ようとしたのか、口に出さずとも、叔父さんの声が聞こえてくるようだった。
「……霧隠れで調べたが、彼は今行方不明だそうだ」
胸を、冷たい針のような痛みが刺した。目を瞬く。
叔父さんが何を言っているのかわからなかった。
「大方、旅に出るふりをして逃げたのだろう。お前は騙されたんだ。霧隠れの抜け忍に――」
吐き捨てるような台詞に、全身の血が逆流するように怒りが込み上げる。考えるより先に、叫びが喉を越えていた。
「ウタカタ師匠はそんな人ではありません!!」
大声を上げ立ち上がった私を、二人は驚いて見つめていた。怒りで呼吸が荒くなる。冷静にならなければいけないのに、波のように全身に広がった怒りは、なかなか収まってくれない。
「師匠がそんなこと、するはずがありません。あの方は土蜘蛛を――私を助けてくれたのですよ?」
怒りにまかせて叫んだはずなのに、音になった声は情けないくらい震えていた。
同意を乞うように遁兵衛を見つめても、黙って視線を逸らされてしまう。苛立ちを抑えきれなくて、握った拳に爪が食い込んだ。
どうして誰もわかってくれないのだろう。師匠が私を騙したなんて、そんなことあるはずがない。
叔父さんを見る眼差しが、槍のように鋭く尖っていく。目が充血し、血走って行くのがわかった。
「そうだとしても、現に今、彼は戻ってきていない。それに、ホタルも読んだだろう。彼は過去に自らの師を殺めているんだ。そんな人間が、どうして弟子を取ろうとしたんだ?」
言い返したいのに、何もわからない。なぜ師匠がそんなことをしてしまったのか、お師匠様との間に、何があったのか。私は何も知らなかった。
悔しくて堪らなかった。反論できない自分が、師匠のことを何も知らない自分が。
それでも、私には師匠がそんな人だと、どうしても思えなかった。
抜け忍だろうと、ビンゴブックに載ろうと、あの人は私の師匠だ。世界一優しい、私を救ってくれた、大切な人だ。
あの優しい師匠が、私を裏切るはずがない。
「それに……彼にはもう一つ里に追われる理由が――」
「頭領、その話は他言無用と言ったはずです」
叔父さんが言いかけた言葉を、遁兵衛が遮る。まだ何か隠しているのかと問いかけるが、二人とも目を合わせてはくれなかった。
代わりに、諦めたような声が帰ってくる。
「信じたくないだろうが、ホタルは利用されたんだよ」
身体の芯が冷えていく。
握った拳から力が抜けていく。
膝から崩れ落ちそうなくらい、足が震える。
「お前と一緒にいるうちは霧隠れの追い忍も手を出さないと、木ノ葉の忍と取り決めたそうだね。それを良いことに、彼は――」
これ以上、何も聞きたくなかった。
行方不明だなんて、師匠を帰したくない霧隠れのでたらめだ。
私を師匠と旅に出させたくない叔父さんのついた、悪い嘘だ。
「……叔父さんも遁兵衛も、どうしてわからないのですか!師匠は私を騙してなんかいない、裏切ってなんかいない。そんな話――絶対に信じません!!」
部屋を飛び出し、形振り構わずに砦を走る。
どうしてこんな思いをしなければいけないんだろう。私はただ、師匠と旅に出たかっただけなのに。強くなって、土蜘蛛を復興させたかっただけなのに。
全部、戻ってこない師匠が悪いんだ。少しって言ったのに、こんなに待ちぼうけを食らわせて、どういうつもりなんだろう。
師匠がここにいれば
師匠が帰ってきてくれさえすれば
全てわかってもらえるのに。
一縷の期待を込めて、師匠の姿を探す。たどり着いた約束の場所に、あの人の姿はなかった。
「ウタカタ師匠……」
空は相変わらず青い。黄色の花弁は散り始め、風に舞って渦を描く。
変わらない景色に、あの日を思い出す。
口ずさむのは、どこかで聞いた名も知らない歌。流れる旋律に合わせるようにシャボン玉が飛んできて、嬉しくなった。
やっと、やっと弟子になれたんだ。憧れ続けたウタカタ師匠の弟子に。
溢れる感情を押され切れなくて、岩から飛び降りてその場でくるくると回ってみる。
これからどんな旅が待っているのだろう。どんな術を教えてもらえるのだろう。旅から帰った私は、どれほど強くなっているのだろう。
倒れ込んだ花畑から、ふわりと黄色い花弁が舞う。師匠が飛ばしたシャボン玉が、太陽の光を七色に反射させた。
「ホタル」
師匠が私を呼んだような気がして、右側を見つめる。そこに師匠はいなくて、伸ばした手の平にそっとシャボン玉が乗っていた。
ウタカタ師匠。
師匠は、旅の許可をもらえるだろうか。ツルギさんとの話し合いも一筋縄ではいかないかもしれない。
そんな不安も杞憂と思えるくらい、今の私は期待でいっぱいだった。師匠と旅ができるのなら、何時間だって待っていよう。あの頑固な師匠に弟子入りを許可してもらった私だ。しぶとさになら自信がある。
ひとつ、またひとつと時を刻むようにシャボン玉が消えていく。
いつしか日も傾きかけ、遠くでは巣に帰る鴉が群れを成して鳴いていた。
「遅いな、ウタカタ師匠……」
独りごちた言葉は、シャボン玉が破裂する音のように頼りなかった。
何時間でも待てると意気込んだけれど、いざ日が暮れると心細くなる。そんな私に追い打ちをかけるように、手の平に乗っていたシャボン玉がパチンと割れた。それを合図に、私も諦めて立ち上がる。
「ちゃんと、師匠に届けてね」
一度砦に帰ることを記した文を通信鳩に預け、後ろ髪を引かれながら砦に戻る。
きっと、明日になれば帰ってくるはずだ。すぐに旅に出られなくても、連絡くらいはしてくれるだろう。
そんな私の期待とは裏腹に、師匠は次の日も、その次の日も帰ってこなかった。文を託した通信鳩は、放したときと変わらないまま、私の元に戻ってきた。