奇跡は二度起こらない

 砦の端の木に腰掛け、いつかのようにシャボンを飛ばす。丸い月はまるで夜空の目玉のようにぽっかりと浮かび、穴が開きそうなほど鋭く私を見つめていた。

「そこはオレの指定席だ」

 記憶の中で聞こえた声に一瞬の期待を込めて振り向く。けれどそこには闇が広がっているだけで、誰の姿もなかった。

 師匠と別れたあの日から、1年が経ってしまった。全てが終わったあの日から、此処は何も変わらない。まるで全てが夢だったかのように、私はただひたすら師匠と出会う前の生活を繰り返していた。
 霧隠れの暗部の話を鵜呑みにしたわけではない。けれど、師匠を待つにはあまりに時間が経ちすぎていた。あれから何の音沙汰もないこと。師匠が帰ってこないこと。師匠が命を落としたのが事実なら――全て辻褄が合う。

 ふっと吐いた息が、ため息のように長く夜に溶けていった。もう10月だというのに今夜はやけに空気が生温い。

 数日前に第四次忍界大戦が始まったと遁兵衛が言っていた。私がこうして穏やかに過ごしている今も、多くの人が戦い、命を落としている。
 もし、土蜘蛛の禁術がまだこの世にあったなら、私もこの戦いに巻き込まれていただろう。
 穏やかな日々も、私の命さえも、全て師匠がいなければなくなっていた。それなのに、師匠と出逢い過ごしてきた日々が全て幻だったと言うように、時間は容赦なく私の中の師匠を霞ませる。

 毎日、毎日、脳裏に焼き付けるように師匠を思い出してきた。初めて出会った日。共に過ごした日々。弟子と認めてくれたあの日。最後に見た優しい笑顔――。ひとつひとつなくさないように仕舞っているのに、日ごとに面影が遠ざかっていく。
 その背中にすがりつくように、月まで届くようにとシャボンを膨らます。声も、姿も朧になってしまった。鼻先をくすぐるシャボンの香りだけが、師匠の記憶を鮮明にする。

 満月が照らす砦の周りは闇に包まれている。
 ここにくれば、ここにいれば、戻れる気がしていた。
 師匠と共に過ごしていたあの日、ウタカタ様を知らずに過ごしていた日々、禁術を希望に一族を復興できると信じていたあの頃に。

 それなのに、現実は全てを奪い去って私を独り置き去りにする。

 私はこれから一体どうすれば良いのだろう。
 答えを求めるように月に向かって歩き出す。数歩踏み出した足先が宙を踏み、ぐらりと身体が傾いた。
 待ち焦がれていた師匠は不帰の客となってしまった。その後を追おうと何度も思ったけれど、ついに為遂げることはできなかった。所詮、人間は死ぬようにはできていない。
 虚空を踏みしめた足を振り上げ、反動で草むらに寝転んだ。前に進むことも戻ることもできずに、私は今日も砦に縛られ続ける。
 いっそ、師匠との思い出の中で永遠に生きて行けたなら。そんな馬鹿げた妄想が浮かんで自然と自嘲の笑みがこぼれた。その時だった。

 不気味に朱く染まった月が円を浮かび上がらせる。その禍々しい輝きに吸い込まれるように辺りの光が闇に呑まれていく。見上げた視線が凍り付くように惹きつけられ、目が離せなくなった。硬直した身体を這うように白い枝がまとわりつく。動けない。

「ホタル」

 全てが闇に包まれる瞬間、懐かしい声に名前を呼ばれた気がした。







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