形見

 渇いた涙の跡を、風が撫でるようにくすぐる。さっきまでの惨状が嘘だったかのように、ここは静かで落ち着いていた。木の葉に触れる風の音が、静かに耳に響く。
 また、取り残されてしまった。いつだって、私は待ちぼうけのまま。
 禁術の争いも、師匠との旅も、さっきの戦闘だって、私はいつも、守られてばかり。救いたかった。この手で、ウタカタ様を守りたかった。けれど——
 目の前で散っていくウタカタ様の身体が、残像のように瞳にこびりつく。失ってしまった。この世で1番、大切な人を。自ら確認してしまった。ウタカタ様はもう、生きてはいないのだと。
 粉々になった胴体と、形を戻していく頬。その光景が、私に教える。これが、ウタカタ様との最後だと、痛いほどに理解してしまった。

 泣き叫びそうになる喉を抑えて、その場に蹲る。理解したはずだった。あの時、ナルトさんに真実を教えられたときに、受け止めたはずだった。なのに、私はその現実を拒否しようとしている。
 頭を抱えて、傷一つできなかった自分の身体を見つめる。ウタカタ様は、私を庇ってくれた。術の縛りを解いてまで、私を救ってくれた。悲しそうな目で私の頬を撫でるウタカタ様の顔が、脳裏に蘇る。ウタカタ様を傷つけたくなかったのに、最後にその身体を砕いたのは、私自身。
 深く息を吐きながら、ウタカタ様が消えた森の方向を見つめる。
 ウタカタ様は今も、敵と戦っている。私は待つことしかできない。師匠を信じて、ここに留まることしかできない。己の不甲斐なさに、嫌というほど吐き気がした。泣いているだけなんて、後悔しているだけなんて、もう嫌だ。今度こそと覚悟を決めて、拳を握りしめながら立ち上がる。
 近づいてくるウタカタ様の気配に、唇を一文字に結んだ。これが最後なら、私たちにはもう、時間がない。


*****


「待たせたな、ホタル」

 戦場から戻ってきたウタカタ様が、静かに微笑みながら口を開いた。その姿に言葉を返せずに、目線を落としたまま首を横に振る。ウタカタ様が伸ばした手が私の髪に触れて、顔の輪郭に沿って毛先を指先で掬った。その手に自分の手を重ねて、ウタカタ様を見つめ返す。ウタカタ様と再会してから、こんなに顔をじっくりと見るのは初めてだった。微笑んだ唇の端に、僅かに泥が付いている。さっきの戦闘は、どうなったんだろう。問いかけることができないまま、重ねた手に力を入れた。それに気がついたウタカタ様が、悲しそうに眉を曇らせた。

「こんなに待ちぼうけを食らわすなんてな。ほんの少しのつもりが、こんなことになっちまった。そして、また、……お前を傷つけた」

 ウタカタ様の指が、頬の傷に触れる。黒い瞳が隠れるように、瞼が細まった。

「ごめんな、ホタル」

 震えた声色に、抑えていたはずの涙がぽろぽろと流れ落ちてくる。もう、泣きたくなかったのにと、必死に首を振って、ウタカタ様の胸に顔を押しつけた。そこに、以前のような温かさは感じない。けれど、それが何だというのだろう。ナルトさんから穢土転生の話を聞いたときに、私は、もう駄目だと思った。ウタカタ様は、敵に操られたまま、私のことなんて忘れてしまったと思った。けれど、ウタカタ様はここにいる。あの頃のまま、私の知っているウタカタ様のまま、私の元へ戻ってきてくれた。私のことを忘れずに、想っていてくれていた。
 ウタカタ様は、自分を責め続けている。頬の傷は、もう痛くはない。辛いのは、ウタカタ様の方。シラナミに操られた時の恐怖を思い出し、唇を打ち振るわせた。その恐怖からウタカタ様を救えない自分の無力さが悲しくて、喉が声を押しつぶす。嗚咽に溺れながら、冷たい胸に、額を伏せた。

「私は、ウタカタ様に、傷つけられてなんていません。ウタカタ様はいつだって、私を守ってくれた。初めて会ったときも、禁術を狙う盗賊からも、それに、さっきだって……」

 喉から絞り出される声が、だんだんと音を失っていく。嗚咽に混じって、呻くだけになってしまった声を、涙と一緒に呑み込んだ。どうにか気持ちを伝えたくて、ぼろぼろになったウタカタ様の着物の襟を、両手で自分に引き寄せる。

「なのに私はっ……私はウタカタ様に、何もしてあげられなかった。いつも守られてばかりで、最後まで、何もっ……!!」
「ホタル、それは違う」

 悲鳴になっていく私の言葉を、ウタカタ様の声が制した。反射的に顔を上げ、その顔を見つめ返す。

「ホタルはオレを救ってくれた。オレにはホタルからもらったものが、たくさんある」
「そんな、私、ウタカタ様に何も……」
「言っただろう?お前のおかげで、師匠の想いに気づくことができたと。あの日、ホタルに出会わなければ、オレは師匠を許すことはできなかった。怒りで耳を塞いだまま、師匠のことを怨んだまま、死ななければならなかった」

 ウタカタ様の両手が、私の顔を包む。泣き腫らした瞼を溶かすように、指先が目の縁をなぞった。涙で濡れそぼった頬を着物で拭われ、じっと顔を見つめられる。瞳に映るウタカタ様の顔は、優しく微笑んでいた。

「ホタル、オレはずっと、お前の師匠になることを拒んできた。散々傷つけて、待ちぼうけを喰らわせて、挙げ句の果てにこんな様だ。結局オレは、お前を傷つけてばかりだ。それなのにお前は、オレを、待っていてくれた。信じていてくれた」

 緩やかに弧を描いたウタカタ様の唇が、引き攣ったように震えていた。無理に笑みを浮かべながら、ウタカタ様はそっと私を抱きしめた。耳に届く声が、掠れていく。

「それで、それだけで、充分だ。ホタルはオレに、人を信じる気持ちを思い出させてくれた。ホタルがオレを信じ続けてくれたおかげで、オレは道具のままではない、ひとりの人間として、死ぬことができた。何もかも、全部、ホタルがくれたんだ。オレの想いは、ホタルの中で生き続ける。オレはもう、あの時のように孤独じゃない。こうして最期に、ホタルに会えた。それで充分だ」

 私を抱きしめるウタカタ様の腕が、小刻みに震えていた。両腕に包まれながら、双眼をそっと閉じる。熱い涙が弧を描いて、頬を伝い落ちた。言葉は何もいらなかった。ウタカタ様の想いは、私の中に伝わっている。こんな私でも、ウタカタ様に温もりを与えられた。ウタカタ様の心を満たし、寄り添う場所になれた。
 塵で作られた身体は、涙を流すことを許さない。噛みしめた唇から漏れる嗚咽を受け止めるように、ゆっくりと、震える背中に腕を回す。涙を流せないウタカタ様の代わりに、声を出さずに、肩口に押しつけた頬を濡らしていく。これでお別れだなんて悲しいけれど、私は最後に、ウタカタ様を救うことができた。
 腕の力を強めて、ウタカタ様の耳に唇を寄せる。囁くように名前を呼ぶと、ウタカタ様も私の名前を呼んでくれた。心残りがないと言えば嘘になる。けれど、私はきっと後悔しない。最後に、ウタカタ様に会えた。私もそれで充分だ。
やわらかな光が、ウタカタ様を包み込む。それを確認しながら、そっと身体を離した。これで、もう————。

「——魂が解放されていく。これで2度と、道具にされることはない。ホタル、お前が、オレの縛りを解いてくれた」

 微笑むウタカタ様に合わせるように、両手で頬を包み込む。ぱらぱらと剥がれ落ちる頬が、涙でぼやけて滲んだ。それを零さないように、震える口角を上に上げる。これが最後なら、悲しい顔は見せたくない。私とウタカタ様の最後が、泣き顔だなんて、あんまりだから。

「ウタカタ様、あなたに出会えて、本当に良かった。私はずっと、これから、どんなに時が経とうとも、あなたのことを忘れない。ありがとう——ウタカタ師匠。」

 最後に言いたかったのは、後悔でも、懺悔でもない。いつだって私を想ってくれていた師匠への、感謝の気持ちを、きちんと伝えたかった。
 微笑んだ口元が崩れないように、ウタカタ様の瞳をじっと見つめる。大丈夫、ちゃんと、笑えている。ウタカタ様の記憶に残る私は、最後まで、笑顔であってほしい。
 ウタカタ様がゆっくりと目を見開いて、それから再び微笑んだ。ウタカタ様を包む安らぎが、私のところまで届いてくる。これでやっと、師匠は、あの暗く恐ろしい苦しみから、解放される。ウタカタ様と視線を合わせて、それからゆっくりと頷いた。ウタカタ様を作っていた紙屑が、風に吹かれていく。
 その風に倣うように、ウタカタ様が、ゆっくりと両目を閉じた。頬を包んでいた手を離すと、静かに音を立てながら、紙屑が形を崩していく。その光景から目を逸らさないために、唇を噛み締めて瞼に力を入れた。全てのしがらみから解放されるように、ウタカタ様の身体が、軟らかく後ろに反れる。

 ありがとう、ホタル

 形が完全に無くなる瞬間、全身を包むように、ウタカタ様の声が私の身体を撫でた。人の形を崩し、塵山となった足元に、音を立ててウタカタ様のシャボン器具が落ちる。それを拾いあげると、堪えていた涙が、堤を失ったように溢れてきた。

「ウタカタ師匠っ……!!」

 シャボン器具を両腕で抱きしめて、その場にしゃがみ込む。崩れた塵に縋りながら、今度こそ全身で、声を上げて、泣いた。





Thanks for アスケラッデン