ここにいる、この胸に生きている
不揃いに並ぶ木々の間を歩きながら、額から落ちる汗を拭う。もう、どれくらい歩いただろうか。水筒に入れた冷たい水を胃の中に流し込み、あの道よりも大分開けた尾根道を下る。坂道の先から流れてくる潮の香りに、くたびれていた足腰を奮い立たせ、どんどん足を進めた。あの時、当てもなく歩いていた森によく似た、けれど全く違うこの道。潮風にベタついた頬を拭いながら、だんだんと見えてきた海を見つめる。師匠の故郷を訪ねるのは、これが初めてだった。
*****
霧隠れの港に着いた船から降り、真っ先に手紙と一緒に仕舞っていた地図を取り出す。
あれから、師匠と別れてから、2年の時が過ぎた。
第四次忍界大戦は、多数の犠牲者を出しながらも、無事に終戦を迎えた。混乱と戦争の傷跡が残る中、五影たちの会合が行われ、今回の戦争における人柱力と尾獣の活躍と、諸悪の根源であった忍システムの改革が話し合われた。幸か不幸か、今回の戦争によって、各人の人柱力に対するイメージは大きく変化した。人々は次々に人柱力への敬意を口にし、既に亡くなった人柱力たちにも、相応の処遇を与えるべきだと、多くの声が上がった。
「お久しぶりです、ウタカタ師匠」
手紙の内容を反芻しながら辿り着いた墓石に、少しだけ首を傾げて微笑みかける。
どこから私のことを知ったのか、それは定かではない。概ね、ナルトさんが話したのだろうと、水影様から届いた手紙を見つめる。
これが、最善の終わり方だと、私は思わない。なぜ、もっと早く人柱力に対する認識を改めなかったのか。そもそもなぜ、人柱力というものが生まれてしまったのか。行き場のない憤りと後悔は、後を絶たない。それでも、やっと、師匠は故郷へと帰ってくることができた。
墓の前にしゃがみ込み、背負袋から黄色い花束を取り出す。静かに墓前に供えると、返事をするように、花弁が緩やかに揺れた。
ウタカタ師匠がここに眠っていることを、まだ、完全には受け入れられていない。死の瞬間を看取った今でさえも、どこからかひょっこり、シャボン玉と一緒に現れてくるような気がしていた。 その様子を想像すると、ふいに涙腺が熱くなる。風来坊で、飄々としていて、誰よりも私を想ってくれていた、大事なお師匠様。叶うことなら、今すぐに、師匠の元へと走り出したい。そう思いながら、墓石をそっと撫でる。
あれから何度も、道に迷い、立ち止まり、どうしようもなく途方に暮れる日々が続いた。それでも、そんなときはいつも、師匠のあの言葉が私を救ってくれた。土蜘蛛の里は、復興にはほど遠い。私の忍としての実力も、まだまだ未熟だ。けれど、確実に、前に進んでいる。
「よォ、ホタルも来てたのか」
後ろから聞こえた懐かしい声に振り返り、こちらに向かって歩いてくる姿に破顔する。
「ナルトさん!」
「久しぶりだな。墓が完成したって聞いたから、今日は仕事を休んで、久しぶりにウタカタに会いに来たんだってばよ」
言いながら墓前に花を供えるナルトさんの背には、大きく『火影』の文字が書かれていた。あれから歩み出したのは私だけじゃないのだと、頼もしい後ろ姿をじっと見つめる。
「お忙しいのに、わざわざありがとうございます」
「気にすんなって!……ウタカタには、オレも、たくさん伝えたいことがあったからな」
以前より大人びた顔を引き締めながら、ナルトさんは辺りを見回した。
潮の香りが、木々に囲まれたこの場所にも届いてくる。街からは離れた、静かで落ち着いた場所。霧が覆う里の中では珍しく、空から木漏れ日が当たる場所だった。その光に目を細めながら、煌々と輝く地面を見つめた。細かい霧の粒が木漏れ日に反射し、星屑のように辺りを舞っている。
「いい所じゃねーか。霧隠れに、こんな場所があったなんてな」
「ほんとう。水影様に、お礼を言わないと」
「隣にはウタカタの師匠もいるし、これならウタカタだって寂しくねーな!」
ウタカタ師匠の隣に立つ、一回りほど小さな墓に触れながら、ナルトさんが微笑んだ。ウタカタ様の墓の場所は、水影様が選んでくれたと言っていた。さりげない彼女の優しさに、胸の奥が締め付けられる。
「元気そうで良かったってばよ。正直言うと、ちょっと不安だったんだ。あの日、ウタカタを見送ってから、ホタルには1度も会ってなかったから」
ナルトさんがこちらを向いて、決まり悪そうに頬を掻いた。その表情に、自分がどれだけ危うい状況だったのかと、今さらながらに感じさせられる。
「ナルトさんには、感謝しているんです。あの日、ナルトさんが私の我が儘を聞いてくださらなかったら、私は今頃、師匠の後を追っていたかもしれない」
薄い凍りの上を進むように、不安定な足場を、必死に走っていたあの頃。自分は何も出来ないのだと決めつけて、目の前で起きている現実をも否定していた。けれど、あの日師匠に出会い、私は自分の弱さと、そんな私を受け入れてくれた、師匠の優しさを知れた。こんな私でも、師匠を救うことができた。その事実が、崩れそうになる私の心を、支えてくれている。
心の内を確かめるように、胸の前で握り拳を作った。唇から息を吐き出すと、口角が自然と上がっていく。
「ありがとうございます、ナルトさん」
「いや、礼を言われるようなことじゃねぇってばよ。オレも…………わかるんだ。師匠を亡くした気持ち。オレの時もいきなりで、最期を看取ることはできなかったし、別れの言葉すら言えなかったけど……その様子だと、ホタルはちゃんと、ウタカタに伝えられたんだな」
歯を見せながら、自分のことのように喜ぶナルトさんに、首を縦に振って頷いた。別れの言葉と、感謝の気持ち。この2つを伝えられた私は、きっと幸福なのだろう。
ナルトさんと一緒に、師匠の墓に手を合わせ、ゆっくりと瞼を開けた。木漏れ日に照らされた花束に、薄ら霧の粒が付いていた。光に反射し、短い光芒を描きながら、眩い道を作っていた。
戦争は終わった、私たちの視線の先にあるのは、一体どんな道なんだろう。
「ホタルは、これからどうすんだ?土蜘蛛の里に帰るのか?」
「いえ。里には戻らずに、もう1度始めから、旅を始めようと思います」
腕を頭の後ろで組み、問いかけるナルトさんに首を振って、潮風を送る方向を見据えた。耳に髪をかけて顎を上げると、温かい風が、私を優しく包み込む。
「私がウタカタ師匠と過ごしたのは、短い間だったかもしれません。けれど、私は師匠に、たくさんのことを教えて貰いました。それは、とても大切で、曖昧で、上手く言葉にはできないけれど……私にとってかけがえのない気持ちだから、それを今度は、私が誰かに伝えていきたいんです」
終着点に到着するまで、何年の時が掛かるのか——終わりのない旅に出ようとする私を、快く送り出してくれた、遁兵衛と叔父さんの顔を思い出す。私は、今もひとりじゃない。応援してくれる人も、待ってくれている人もいる。師匠の想いをひとりでも多くの人に伝えて、師匠を知ってもらいたい。そうしていつか、私が死んでしまっても、師匠の想いが消えないように、師弟の絆を、繋いでいきたい。
「ホタルなら、きっと出来るってばよ。そしていつか立派な忍になって、たくさんの弟子を持って、ウタカタに見せつけてやれ!」
「ウタカタ師匠にそんなに弟子を紹介したら、悲鳴を上げて逃げてしまいそうですね」
「ははっ。……頑張れよ、ホタル。辛くなったら、いつでも頼っていい。オレはこの先、争いのない、平和な世の中を作っていきてーんだ。そのためには、ホタル、お前の力も必要だ」
「わかっています。私はもう、命を投げ出したり、立ち止まったりはしません。ゆっくりでも、着実に、ウタカタ師匠に追いついて見せます」
ナルトさんと手の平を合わせて、それからしっかりと握りしめた。視線を重ねて、声を出さずに深く頷く。
「じゃあな、ホタル。たまには木ノ葉の里にも来てくれってばよ!」
「はい。ナルトさんも、お元気で」
大きく手を振るナルトさんを見送って、静かになった辺りを振り返る。何も言わずに佇む墓石を見つめながら、拳を握りしめた。ナルトさんの手の感触が、まだ残っている。
生きている。唐突に、そう感じた。私は生かされた。師匠の想いに応えるために、師匠の想いを繋ぐために。
風が星屑を散らし、葉音を奏でていく。深く息を吸いながら、木々の間から見える空を見上げた。私の大好きな師匠の色が、そこには広がっている。
「さようなら、ウタカタ師匠。——行ってきます」
黄色い花弁が、風に合わせて優しく揺れた。墓石を目に焼き付けたあと、口元を引き締め、瞼を閉じて師匠に背を向ける。
私はもう、振り返らない。師匠はいつだってここにいる、この胸に生きている。晴れた昼の空に見守られながら、私は足を進めていく。進め、進め。いつか師匠に会えるその日まで、私はこの道を、歩いて行く。