You scared me!

 冷蔵庫から取り出した牛乳を飲み干して、ウタカタは大きく息を吐き出した。しんと静まり帰った部屋に、ウタカタの息の音が響き、消えていく。
 部屋のどこを見渡しても、ホタルの姿はない。薬を男に渡した後から、ホタルはウタカタを避けるようになった。ウタカタが苛立ちをぶつけるように、冷たくあしらったせいだろう。それに気がついているウタカタは、ホタルの落ち込んだ顔を思い出し、黙って頭を振る。これでいいんだ。元から優しくする理由などない。下手な情が湧いてしまえば、傷つくのはホタルの方かもしれない。
 コップを流しへと片付けると、ふいにウタカタは名前を呼ばれた。聞き覚えのある声に振り返ると、ホタルと一緒に住んでいるという老爺が、杖をつきながらウタカタを見ていた。

「少し、よろしいでしょうか」

 深めに被ったシルクハットを傾けて、老爺は口元に笑みを浮かべる。ウタカタはその問いかけに無言で頷くと、老爺の後についていった。
 この老爺が何者なのか、ウタカタは知らなかった。この家に初めて来た晩に挨拶をした以外は、ほとんど顔を合わせることもなかった。ホタルの親類なのだろうか。
 前を歩く曲がった背中を見ながら、ウタカタは顎をさする。長い間この家に留まっても、ホタルの箒を探しに夜遅くまで出歩いても、この老爺は一言も文句を言わなかった。そろそろ堪忍袋の緒が切れる頃合いだったのかと、老爺の話の内容を予想して、ウタカタは少しだけ身震いをする。

「さあ、こちらへお掛けください」

 椅子に腰掛けると、老爺は皺に埋もれた目をふっと緩めた。思いがけない表情に、ウタカタは鳩が豆鉄砲を食ったように背筋を伸ばす。

「ウタカタ殿には、いつもホタル様がお世話になっています」
「別に、世話などしていない」
「いいえ。例えウタカタ殿がそのつもりでも、ホタル様は貴方に救われているのです。——貴方がこの家に来てから、ホタル様は本当に明るくなられた」

 老爺は杖に両手を添え、昔を思い出すかのように窓の外を見た。薄く曇ったガラスの向こうから、太陽の光が差し込んでいる。けれど、その光は部屋の奥までは届かず、ウタカタと老爺が座る場所には、薄暗い影がかかっていた。

「……ホタル様は、宿命の子なのです。魔物と人間の間に生まれた、どちらでもない存在。長らく魔物と共に過ごしていたホタル様のお爺様は、それはそれは優しいお方でした。魔物も人間も区別することなく、皆平等に愛を注いでおられた。しかし……魔物の血に人間の血が混じったことで、その力は徐々に弱まっていきました。ホタル様はそのせいで、今も完璧な魔女になれずにいるのです。反対に、完璧な人間になることもできずに……。ウタカタ殿、どうかお願いがございます。これからも、ホタル様の傍にいてはもらえないでしょうか?ホタル様には、貴方のようなホタル様の境遇を知っても身を引かない、強いお方が必要なんです」

 老爺の縄紐のような目に、いっそう力がこもった。ウタカタはその目を見据えると、肩を落としながら息を吐き出す。
 人間と魔物の役に立ちたいと、ホタルは言っていた。そして、自分の力を高めるよりも、名も知らない病人を救うことをホタルは選んだ。
 魔物は時に、人間を襲う。もちろん全てがそうであるわけではないが、人間がそれを理解するはずはない。どちらにも付けない血に生まれて、ホタルは何を思っていたのだろう。ホタルを思い返して浮かぶのは明るい表情ばかりだが、心の底では無理をしていたのかもしれない。

「悪いが、それはできないな」

 自分の名を呼ぶホタルの顔を思い出しながら、ウタカタは吐き捨てるように呟いた。ただでさえ疎まれる存在ならば、自分が傍にいるわけにはいかない。

「オレにはオレの時間があるんだ。世話をしてくれたのには感謝するが、この家に留まるつもりはない」
「……そうですか…………」
「悪かったな。だが、オレがここにいなくとも、ホタルにはあんたがいるだろう。それだけじゃ足りないのか?」

 ウタカタが問いかけると、老爺は項垂れるように俯いた。雲が日の光を覆い隠し、部屋をよりいっそう暗くさせる。それを見計らったかのように、老爺は黙って帽子に手をかけた。

「っ…………!」
「いくら魔物といえども、寿命があります。私もかれこれ数百年生きてきましたが、もう、限界が近づいているのです」

 老爺の額の上に生えた2本の角を見て、ウタカタは目を逸らして俯いた。世の中はいつだって上手くいかない。この老爺が息絶えたとき、ホタルはどうするのだろう。この人里離れた家で、ひとり暮らしていくのだろうか。



 薄く雲のかかった空を見上げて、ホタルは肩を落とした。薬を男に渡してから、ホタルはウタカタと碌に会話をしていない。ウタカタにこれ以上迷惑をかけ、嫌われるのが怖かったのだ。
 早く箒を見つけなければと躍起になってみても、成果は全く現れなかった。魔女試験までは、あと幾日もない。ウタカタも今のところは付き合ってくれているが、そのうち愛想を尽かしていなくなってしまうかもしれない。それだけは嫌だった。どんなに拒絶されても、ホタルはウタカタに恩を返したかった。このままでは、苦い後味だけが残ってしまう。

「こんにちは、お嬢さん」

 ホタルがトンガリ帽子を深く被り直したとき、後ろのほうから誰かがホタルの名を呼んだ。声のした方へと振り返ると、薬を貰いにきた男が、黒い外套を羽織って不気味に笑っていた。

「貴方は、あの時の……」
「あの薬のおかげで、すっかり体調も良くなりましてね。1度お礼を言おうと思って」

 そう言って微笑む男に、ホタルは小さく頭を下げた。体調が良くなったと言った男だが、顔色は相変わらず青白い。その様子を不思議に思いながらも、ホタルは男の笑顔に安堵の表情を見せた。

「病気が治って良かったです。薬を作った甲斐がありました」
「この度は命を救われました。お礼と言ってはなんですが、風の噂で、貴方が箒を探していると聞きましてね。もしかしたら、これのことではないかと」

 男が外套の中から取りだした箒に、ホタルは思わず声を上げた。男が手にとっている物は、間違いなくあの箒だった。
 箒を男から受け取ると、ホタルは久しぶりの感触を噛みしめるように、両手でしっかりと箒の柄を握りしめた。これで魔女試験に間に合うと、安堵のため息を漏らす。

「ありがとうございます。ずっと、探していたんです」
「そうですか。見つかってよかった」
「あの……どこでこれを?」

 ウタカタと2人、毎日のように箒を探し歩いたが、箒の痕跡さえ見つからなかった。疑問に思い尋ねるホタルに、男は紫色の唇をつり上げて、白い歯をこぼす。

「私の使いの者が、持っていたのですよ。森の中で見つけたとか言って」
「そうですか……」
「それでは、私はこれで。……あ、そうだ」

 再び外套を被り直した男が、首を下げてホタルを見据えた。長い睫に縁取られた眼球が、ホタルを嘗め回すように上下に動く。

「薬を貰いにいったとき、貴方と一緒にいた男……あれ、魔物ですよ」
「え?」
「私には不思議な力があってね。昔から魔物と人間の違いが人目でわかるんだ。あの男は魔物。しかも、かなり凶悪な……」
「ウタカタ様は、そんな人ではありません!」
「どうかな。人は見かけによらないって、昔から言うだろう。あの男だって、魔女の力を狙って貴方に近づいているだけかもしれない。世の中は貴方が思うより、闇に満ちているんですよ」

 冷たい眼差しで自分を見下す男に、ホタルは、顔を歪めた。薄い雲が空を覆い、いつの間にか太陽は姿を消している。影の色が濃くなる中、男は外套の中から、銀で出来たナイフを取り出した。それをホタルに握らせると、顔を近づけて、不気味な顔で鮮やかに笑う。

「始末をするなら、早いほうがいい。そのナイフは、どんな魔物でも一発で仕留められる代物です。それに、魔物の心臓を手に入れれば、秘薬を飲むよりもずっと手早く、巨大な力が手に入る。調度良い機会じゃないですか」

 男の言葉に、ホタルは顔を上げた。至近距離で合った目に、不気味な笑みが貼り付いている。

「どうして、魔力のことを……」
「言ったでしょう。私には昔から不思議な力がある。これもまた、その力のひとつですよ」

 ホタルの手を離すと、男は顎を上げて最初のような笑顔を浮かべた。心の内を見透かされたせいか、不気味な笑みが、いっそう作られたように映る。

「それでは、魔女のお嬢さん。またお会いしましょう」

 黙ったままのホタルに背を向けると、男は不気味な笑みを残したまま姿を消してしまった。人間がするには素早い動作だったが、ホタルにはそのことを考えている余裕はなかった。
 ウタカタ様が、魔物。そして、魔物の心臓を手に入れれば、巨大な魔力が手に入る。そうすれば、箒に乗ることも、お爺様の夢を叶えることだって簡単だ。
 ぐるぐると回る考えを打ち消すように、ホタルはナイフをローブの中へとしまった。魔物を殺すことを考えるなんて、白魔女失格だ。ましてや、命の恩人でもあるウタカタを殺すなんて……。
俯いたホタルの視界の端に、見慣れた靴が映った。反射的に顔を上げると、仏頂面をしたウタカタが、沈黙したまま傍に立っていた。

「ウタカタ様……」
「箒、見つかったんだな」

 掛けられた言葉に、ホタルははっとして自分の右手を見る。慌てたホタルが言葉を紡ぐ前に、ウタカタは踵を返してホタルに背を向けていた。

「これでオレの役目も終わりだ。世話になったな」
「待ってください、ウタカタ様!」

 箒を投げ捨て腕に縋りついたホタルの顔を、ウタカタは目玉だけを動かして冷たく見据えた。

「ほんとうに、もう、行ってしまわれるのですか?」
「始めに言っただろう。お前と一緒にいるのは、箒が見つかるまでの間だと」
「……でしたら、せめて、これを——」

 ホタルはローブの中からハーブを取り出すと、ウタカタに向けて差しだした。黄色い花を咲かせたそのハーブは、ホタルの庭で育てたものだった。

「ディルって言うんです。魔除けの効果があって、風邪にも効きます。箒を探してくれた、せめてものお礼です。いらなかったら、途中で捨ててもかまいませんから……」

 徐々に俯いていくホタルに、ウタカタは芽生え始めていた情を擽られた。これ以上動揺する前にと、ウタカタはホタルからハーブを受け取ると、腕を掴んでいたホタルの手を、優しく解いた。

「貰っておく。…………じゃあな」

 ウタカタの唇に微かに浮かんだ笑みにホタルが気づく前に、ウタカタは足を進めてホタルの前から姿を消した。ホタルはその姿が見えなくなるまでウタカタを見つめると、ふうっと息を吐いてその場に座り込んだ。
 空の色は、ホタルの気持ちのように灰色に濁っている。ローブの中にしまったナイフと、傍に転がった箒を交互に見て、ホタルは悲しげに目を細めた。
 魔女試験までは、もう時間がない。沈んだ気持ちを奮い立たせるように、ホタルは箒の柄を掴んだ。その様子を監視するように、木の陰から、黒猫が尾を靡かせて爪を光らせていた。空を覆う雲は、どんどん黒さを増していく。その雲に吸い込まれるように、ホタルを乗せた箒が、ゆらりと宙を舞った。