Memories of Coppelia.

 目を覚ますと、そこは、見慣れたベッドの上だった。いつもと同じ朝なのに、今日はいつもと違う。まだ眠っている傑作くんを起こさないように気をつけながら、体を起こして、初めてこの家に来た時のように、部屋の中を見渡した。
 一晩中見ていた、長い長い夢が、自分が経験したことのように、頭の中に残っていた。そんなはずはないと、重い頭を横に振る。あたしは事故で記憶を失って、病院で途方に暮れていた時に、親戚である傑作くんに、引き取られたはずだった。だから、あたしたちの間に、男女の関係はないし、こうして同じベッドで寝ているのも、親子愛のような、そんな親愛からだった。

「傑作くん?」

 いつまでも消えない不安を拭うように、目を覚まさない傑作くんの顔を振り返る。穏やかな顔に、夢の中で見た優しい笑顔が重なって、胸の奥が苦しくなった。


 頭の奥で、老人の声が響く。

――この人形は、欠陥品だから、一年しか記憶が保たないんだ。だから今は、長期じゃなくて、単発の客用に貸し出ししてるんだけど、なにせ愛想がなくってね。このまま置いているにも維持費が掛かるし、いっそのこと処分しちまおうと思ってるんだ。

 その声に耳を塞ぎながら、あたしを見つめる、男の顔を見上げる。無表情なその顔に、同情の色はなかった。けれど、決してあたしを蔑んでいるわけではない、優しいその色に、自然と涙が零れた。

――ぼく、この人形にします。レンタルじゃなくて、買い取りで。いくらですか。
――何を!?あんた正気かい?こんな中古の欠陥品じゃなくて、もっといい商品おんなが、いっぱいいるというのに。
――いいえ。ぼくはこの子がいいんです。鍵を開けてください。

 目の前に現れた男の姿を、ゆっくりと見上げる。男が膝を曲げて、あたしと目を合わせた。

――あなたは、だあれ?

 最後に呟いた自分の声が、記憶の中で、幾重にも重なる。その言葉を聞いて、傑作くんが、あたしを抱きしめた。何かを愛おしむように髪を撫でて、背中に腕を回す。耳元で、母親が幼子に昔話を聞かせるような、優しい声音が、鼓膜に響いた。

――ぼくの名前は、平積傑作だよ。


 記憶の旅から現実に戻ってきた時、あたしの目は、涙で濡れそぼっていた。何度拭っても、涙が止まることはない。
 胸の中に浮かんだ答えを確かめたくて、あたしは傑作くんに手を伸ばした。肩を揺さぶって、縋るように名前を呼ぶ。

「傑作くん。ねぇ、傑作くん。起きて、お願い」

 白髪の交じった髪に触れて、皺の刻まれた肌を撫でる。傑作くんに会うのは、事故に遭った後が初めてのはずなのに、どうしてあたしは、傑作くんの若い頃を知っているのだろう。もう、何十歳も年が離れているはずなのに、どうしてあたしは、傑作くんに抱かれていたのだろう。あの、暗い牢獄のような場所で、塵を見るような目であたしを見下ろしていた老人は、傑作くんが連れ出してくれたあの場所は、一体何なんだろう。

「あなたは、だあれ?」

 そう、あたしが聞いた時、傑作くんはいつだって、一瞬、泣き叫びそうなほど辛い顔をして、そしてあたしを抱きしめた。

「ぼくの名前は、平積傑作だよ」

 “さん”付けじゃ他人行儀だから、“傑作くん”って呼んでよ。
 親戚のお爺さんだったはずの傑作くんが、どうしてそんな妙なお願いをしてきたのか、今のあたしにははっきりわかる。「傑作くん」と呼ぶ度に、嬉しそうに綻ぶ顔が、記憶の底の、夢だと思っていた現実と重なった。

「ねぇ、傑作くん。起きて、起きてよ。あたし、思い出したの。傑作くんのこと、忘れてなかったよ。全部、ちゃんと、覚えてた。プログラムじゃなくて、あたしの、本当の心で、傑作くんのこと、覚えてたの。ねぇ、傑作くん。目を開けて、お願い」

 しわくちゃの頬は、既に、冷たくなっていた。涙に濡れるその顔を両手で包んで、何度も口付けを繰り返す。閉じたままの唇は、あたしの愛撫に応えてはくれなかった。それでも、どうにかして気持ちを伝えたくて、何度も何度も、狂ったように、唇を押しつけた。

「傑作くん。好きよ、好き。愛してるの。お願い、答えて。あたし、傑作くんのことが好きなの。傑作くんが教えてくれた。あたしに、愛の意味を、生きる意味を。傑作くんだけが、あたしを救って、人間として、生かさせてくれた。ねぇ、傑作くん。あたし、ありがとうって、伝えてない」

 口付けを止めて、あたしを抱きしめたまま固くなっていた腕の中に戻る。もう二度と聞こえない鼓動が聞きたくて、パジャマを引き裂いて、裸の胸に、耳を押しつけた。冷たく、動かない胸に、記憶の中の傑作くんが重なって、余計に涙が溢れてくる。あたしは、傑作くんに、こんな辛い思いを、何度もさせてしまった。大切な人の、悲しい涙は見たくなかったのに、あたしが傑作くんを、泣かせてしまった。

「傑作くん、ごめんね。ごめんね。でもね、好きなの。愛してる。また、笑ってよ。あたしを抱きしめて。好きだよって、愛してるって、また言ってよ。あたし、傑作くんがいなきゃ、幸せになれない」

 誰の鼓動も聞こえない静かな部屋で、時計の秒針の音だけが、いつまでも響いていた。その音が、最後まで動かなかったあたしの鼓動のような気がして、あたしは少しだけ、嬉しかった。