Memories of Coppelia.

 薄暗い部屋の中で、静粛の音だけが聞こえる。ピンと張り詰めた空気を吸いながら、瞬きを繰り返して、剥き出しになった自分の腕を見つめた。薄いキャミソールのワンピースは、ところどころ破けて、ぼろぼろになっていた。何の液体で出来たのかわからない染みも、至る所に跡を残している。
 コツン、コツン。
 どこからか、人の足音が聞こえてきた。いつもあたしたちを見回りにやってくる老人の足音と、もう一人。聞き覚えのない音が、静けさの中に響き渡る。
 コツン、コツン、コツン。
 足音のひとつが、自分の近くで止まった気配を感じて、顔を上げる。照明の明かりに目がやられて、くらりと大きな目眩がした。曖昧に顔を上げたままのあたしの前で、人影が何やら会話を始める。
 ああ、今日は、この人なのか。
 老人が鍵を取り出し、牢の扉を開けたところで、確信した。眩しさに白んでいた視界も、徐々に戻っていく。
 昨日は、名前も知らない、小太りのおじさんだった。一昨日の相手は、もう、姿さえも覚えていない。
 入れ替わり立ち替わりにあたしを連れ出す男たちは、皆好き勝手にあたしの体を玩ぶと、オモチャに飽きた子供のように、何も言わずにあたしを家の中から追い出した。律儀にこの場所に返しにきてくれるなら、まだ良いほうだ。癒えない痛みを抱えながら、寒い夜の街を歩いたことだって、何度もある。
 俯いて地べたを見つめるあたしの視界に、見慣れないスニーカーが映った。また、悪夢が始まるのかと、僅かに目を細めながら、男の顔を見上げる。黙ったままでいる男の顔を、光のない目で見つめながら、そっと、唇を開いた。



 目が覚めると、そこは、見慣れないベッドの上だった。肩まで掛けられた布団と、剥ぎ取られていない服に違和感を覚えながら、起き上がって、辺りの様子を観察する。あたしが知っているホテルの内装とは、全く違う場所だった。質素な机と、小さなテレビが置いてあり、生活感の漂うこの場所は、誰かの部屋のようだった。感じたことのない空気に息を潜め、布団の端を握りしめる。どうして自分がここにいるのか、ここはどこなのか、何もわからなかった。

「やあ、目が覚めた?」

 首を竦めながら様子を伺っていると、扉が開いて、見知らぬ男が顔を出した。驚きのあまり顎を引いて、あからさまに感情を露わにしてしまう。そんなあたしの様子に、男は笑みを浮かべて、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。ベッドに座ったままのあたしの顔を覗き込むようにして腰を曲げ、口元を上に綻ばせる。

「たくさん寝て、疲れただろ。お風呂を沸かしてあるから、入ってきたらどうかな。熱いシャワーでも浴びれば、目も醒めると思うよ」

 その言葉を聞いて、この男が、昨日のスニーカーの男だということに、あたしはやっと気づいた。行為をする前に、シャワーを浴びせる男は多い。この男も、人の良い笑みを浮かべてはいるが、腹の底は、穢れた欲でいっぱいなんだろう。
 文句を言われないようにとさっさとシャワーを済ませ、置いてあったタオルで身を包んだ。水を拭き取っていくうちに、あの、ざらざらとした気色の悪い舌の感触を思い出して、思わず口を押さえる。これだけ鮮明に覚えているということは、きっと、あの小太りの男の記憶なんだろう。行為の時は、なるべく違うことを考えるようにしているのに、肌についた感触は、なかなか消えてくれない。
 胸の間を、赤くなるくらいタオルで擦ったあと、浴室の扉を開けた。そこに、きちんと畳まれた服を見つけ、浴室から出ようとしていた足を止める。あたしが着ていたはずのワンピースは、どこにもなかった。男が持って行ったのかと考えを巡らせ、恐る恐る、白いTシャツを手に取る。服に袖を通すと、清潔な、洗剤の香りがした。

「あ、出てきた。ごめんね、服、それしか用意できなくて。大きくて不便だろうけれど、少しの間、我慢してくれるかな。あとで、ちゃんと君のサイズにあった服を、買ってくるからさ」

 服を着て部屋に戻ると、男は予想に反して、あたしをベッドに連れていかなかった。訳がわからず立ち竦んでいると、手を引かれて、椅子の上に座らされる。目の前に並べられた料理に、困惑して、男の顔を見上げた。優しい笑みが、崩れることはない。男はそのままあたしの向かいに座り、何食わぬ顔をして、料理を食べ始めた。途中、呆気にとられているあたしに、「ご飯、食べないの?」と聞いた以外は、ほとんど何も言わずに、笑顔を浮かべたままだった。


 それから数日が経っても、男があたしを抱くことは、一度もなかった。今までなら、二人きりになるが否や、獣のように行為を繰り返され、欲を吐き尽くすと、さっさと追い返されたはずなのに、この男は、行為を一度もしないまま、あたしを家に置き続けた。
 その代わりに、男は時折、力強くあたしの体を抱きしめた。口付けも、卑猥な手の動きもない。ただ、黙ったまま腕の中に体を収めると、あたしの体が痺れるまで、その動作を続けていた。

「どうして、こんなことをするの?」

 抱きしめられながら、そう問いかけると、男は体を離して、嬉しそうに微笑んだ。あたしが口を利いたことが、そんなに喜ばしいことなのかと、面喰らいながらも、近くで見る男の笑顔が眩しかった。

「ぼくは、しおりちゃんが好きだからだよ。こうしていると、幸せな気持ちにならない?」
「好き?好きって、何?どうしてあたしを抱きしめていると、幸せになれるの?」
「うーん。そう言われると、難しいな。――しおりちゃんは、ぼくに抱きしめられるの、嫌い?」

 一瞬、自信をなくしたように崩れた笑顔に、胸が痛くなった。その表情をこれ以上見たくなくて、あたしは慌てて首を振った。それを見た男は、また嬉しそうに微笑んで、一層強い力で、あたしを腕の中に収めた。眠るときも、男が家を出る前も。男が家にいるときは、あたしはほとんどの時間を、男の腕の中で過ごしていた。
 そして、次第に、男の腕の中にいることが、心地よくなっていた。男の胸に顔を押しつけ、爽やかな石鹸の匂いを嗅いでいると、胸の奥から、暖かい空気が溢れてくるようだった。それに、いつの日からか、あたしの体は、男に抱きしめられているだけでは、物足りなくなっていた。ある日、その物足りなさを埋めようと、男の体に手を回すと、男は驚いたようにあたしを見つめ返して、それからいつものように、優しい笑顔をあたしに向けた。その笑顔を見ると、溢れていた暖かさが、余計に熱を持っていくようだった。

「ねぇ、傑作くん。傑作くんはどうして、あたしを抱かないの?」

 あたしがこの家に来て数ヶ月が経った頃、あたしは勇気を出して、男に問いかけた。いつの間にか、当たり前に呼ぶようになっていた名前の後に続けられた疑問に、男は狐につままれたような顔で、あたしを抱きしめていた体を離した。そして、まじまじとあたしの顔を見つめると、こくんと首を傾げて、あたしの頬を撫でた。

「どうして、そんなことを聞くの?」
「だって、あたしがあの場所から連れ出された時は、誰かに抱かれる時だったもの。だからあたし、傑作くんも、そのためにあたしを連れ出したのだと思ってたの。それなのに、何もしないから、傑作くんは何のために、あたしをここに連れてきたのかと思って」

 あたしの言葉を聞くと、穏やかだった傑作くんの顔が、途端に歪んで、苦しげに瞼が細められた。その表情の意味がわからずに、黙ったまま見つめていると、今までに感じたことのないくらいの力で、体を抱きしめられた。顔が押しつけられた肩口が、細かく震えている。泣いているのかと、問いかけたかったけれど、唇が押しつぶされて、上手く声が出せなかった。

「しおりちゃん、ぼくは、君を抱くためじゃない。君と一緒に居たいから、君をここに連れてきたんだよ」

 鼓膜に直接響くように、傑作くんの声が、耳のすぐ傍で聞こえる。予想外の言葉に、窮屈な中で首を曲げて、傑作くんの表情を見ようとした。

「君は、もう、あの場所には戻らない。これからずっと、ぼくと一緒に暮らすんだ。だから、もうあの頃のことは、思い出さなくていいんだよ。その代わり、ぼくのことだけを考えて。ねぇ、しおりちゃん。ぼくは、君のことが好きだよ。しおりちゃんは、ぼくのことが好き?」

 腕に包まれた、暗い視界の中で、傑作くんの声が響く。低い音が震えて、目の前にある瞳は、涙に濡らされたように、潤んで揺れていた。
 好き。好きって、何。
 その意味を、もう一度問いかけたかったけれど、声が上手く出なかった。泣いている傑作くんの顔を見るのが苦しくて、その目に手を伸ばす。暖かい空気が胸の奥から溢れてきて、あたしの息を詰まらせていくようだった。呼吸が上手くできずに、喘ぐように深い呼吸を繰り返す。

「好き、好き。好きだよ、傑作くん。あたしは傑作くんが好き。好きなの」

 気がつくと、意味もわからない「好き」の言葉を、あたしは何度も繰り返していた。何が悲しいのかもわからないのに、涙が溢れてきて、あたしの頬を包む傑作くんの手を濡らしていた。
 あたしの「好き」を呑み込むように、傑作くんは、話し続けるあたしの唇に、優しくキスをした。何度も経験している感触のはずなのに、今までのキスでは感じられなかった暖かさが、あたしの唇を包み込んでいた。挟み込むように唇が重ねられ、どちらともなく、舌が交わり合う。初めての傑作くんとのキスは、涙の、しょっぱい味がした。息継ぎの時間さえももどかしくて、あたしは自分から、傑作くんの頭を自分の方へと寄せた。糸を引いて流れる唾液は、二人の唇を、淫らに濡らしていった。
 その夜、あたしは初めて、傑作くんに抱かれた。傑作くんの手の平は、いつまでも慈しむようにあたしの肌を撫でて、舌や指先で行われる愛撫は、あたしを何度も快感に喘がせた。こんな風に、行為で自然と声が漏れるなんて、初めての経験だった。
 傑作くんは、まるで処女を抱くかのように、何度もあたしに話しかけ、そして、優しく腰を動かした。あたしは腰が打ち付けられる度に、傑作くんの名前と、「好き」の言葉を繰り返した。同じように紡がれる傑作くんの声に、あたしは何度も絶頂を迎え、傑作くんの名前を呼びながら、意識を手放した。
 傑作くんに愛された後、あたしはいつでも、気を失うように眠りにつき、傑作くんの腕の中で、目を覚ました。
 あたしが先に起きた時も、傑作くんが先に起きた時も、目が覚めて視線が合うと、傑作くんはあたしを抱きしめて、耳元で「愛してる」と囁いた。その言葉を聞くと、あたしはなぜか安心して、幸せな気持ちに浸ることができた。
 「好き」の意味も、「愛してる」の意味も、あたしにはよくわからない。けれど、その言葉を言われると、あたしは幸せな気持ちになれるし、傑作くんも、あたしがその言葉を伝えると、幸せそうに笑ってくれた。あたしには、それだけで満足だった。このまま、傑作くんと二人で暮らせれば、他には何もいらなかった。


 だから、あたしにはわからなかった。どうして傑作くんが泣いているのか、どうして傑作くんが、あたしに忘れられることを恐れているのか、何もわからなかった。
 あたしが傑作くんを、忘れるわけがないのに。そう伝えても、傑作くんは泣き止まなかった。ずっと一緒にいたいと、昔、傑作くんがそうしてくれたように、腕を巻き付けて、傑作くんの体を抱きしめた。涙を見るのは嫌いだ。それが、大切な人の、悲しい涙なら尚更。

「傑作くん。好きよ、愛してる」

 傑作くんを幸せにしたくて、いつものような笑顔が見たくて、あたしは意味もわからない、愛の言葉を呟いた。胸の奥から溢れる、この暖かさを伝える手段を、あたしはこれしか知らなかった。