届かずとも

「いつまでそうしてるつもりなんだ?」

 頭上から降り注ぐ声に、閉じていた瞼を開けた。声の主が落とした粘液が、ぬちゃりと音を立てて地面に落ちる。
 ここはどこなのだろうか。問いかけるように仰向けに寝転んだままそいつを見つめる。オレの気持ちが伝わっているのかいないのか、そいつは言葉を一言も発しなかった。

「暁に狩られたとき、お前とは別れたはずなのにな」

 周囲から音が聞こえない。見上げた視界に写るのもヌメヌメと照り輝く巨体だけだ。ついにあの世かと自嘲するように不敵な笑みを浮かべる。

「そんな怖い顔すんなよ」

 聞き飽きた甲高い声は、こちらの気持ちなど気にもしていないようだった。その態度にわざとらしくため息をつきながら、起き上がって胡座をかく。
 ここはあの世か、と我ながら愚にも付かない質問を投げかけた。六尾――犀犬は黙ったまま首を振る。ならばここはどこなのかと再び問いかけたが、ぼってりとした首を傾げるだけだった。
 今度はどこだというのだろう。この様子だと戦争はまだ終わっていない。体は今も、攻撃を繰り返しているのだろうか。

 ――どこで違ってしまったのだろう。

 苛立ちを抑えるように唇を噛みしめる。どうしてオレは、こんなところに留まっているのだろう。死んでいるのに、あの世には行けない。この世に留まっているのに、あの場所に帰ることもできない。後悔は無駄だと分かっていても、堤を失った思考は止まることなく溢れていく。

 あのとき、ツルギの話を最後まで聞いておけば良かったのか。
 師匠の言葉を、もっと早く思い出していれば。
 いや、それよりもっと前……あのとき、この力を手に入れなければ――

「後悔しているのか?オレと出会ったこと」

 思考を読んだように、犀犬が普段よりも幾分低い声を出した。詰責するような言葉に、カアっと頬が熱くなる。

「当たり前だろう!お前さえいなければ、こんな力さえなければ、オレは……オレは今頃――!!」

 そこまで叫んで、ハッと息を止める。今更こんなことを言っても仕方がない。六尾犀犬の人柱力になると決めたのはオレ自身だ。こいつはただ、私利私欲にまみれた人間たちに利用されただけだ。尾獣もまた被害者だったことを――皮肉にも死んでからあの少年に教えられた。
 生きているうちに向き合わず、全てのことから逃げようとした。こんな言葉を使うのは反吐が出るが、これがオレの運命だったのだ。生まれ里からは追われ、師匠と弟子を傷つけ、根無し草のまま枯れていく。ウタカタの名にふさわしい泡沫ほうまつの人生ようなだった。

「……いつ死んでもいいと思っていた。師匠を殺め、里を抜け出したあの日から――もしかするとそれ以前から――生きている意味なんてなくなっていた」

 項垂れるオレの顔を覗き込むように、犀犬は黙ったまま腰を屈めた。初めてこの姿を見たとき、なんて不気味な生き物なんだと畏怖した。こんな化け物を身体に埋め込んで生きていられるのか……もっとよく考えるべきだったんだろう。それでもオレはこいつを受け入れた。それが里にとって、自分にとって、最良の選択だと思ったから。

「それなのに、今は悔しい。悔しくてたまらない」

 涙を耐える少年のように、声が情けなく震えていく。

「そう思ったのは、あの娘のせいか」

 犀犬の問いかけに黙ったまま頷く。不甲斐ないが、これ以上話すと泣いてしまいそうだった。
 震える瞼を強く閉じ、瞳の裏にホタルの顔を思い描く。年端もいかない世間知らずな無邪気な少女に、オレはここまで救われていた。全てを失い虚無の中を生きていたオレに、ホタルは全てを与えてくれた。

「馬鹿みたいだろう。オレの人生、掴んだと思ったら全部逃げていく。人柱力になり里を救おうとしたときも、師匠の役に立とうとしたとも、全てやり直しホタルと共に生きていこうとしたときも……全部なくなっていくんだ。望めば望むほど、オレから遠ざかっていく」

 犀犬相手に何を話しているのだろう。ふと我に返るが、もうどうでもよかった。どうせ全部見られていた。こいつはオレの一部だった。今更格好つけても仕方がない。

「……師匠を殺めてしまったとき、一番後悔したよ。どうしてこんな力を持ってしまったんだって」

 何も言わない犀犬を吹っ切れたように見上げる。ああそうだ。こいつとはずっと一緒にいた。なのに――こうやって顔を見つめるのは初めてだ。

「けれど、お前の力のおかげで、ホタルを救うことができた」

 あのときホタルを助けたのは、六尾こいつの力だ。師匠を殺めたあの日、二度と使うまいと誓ったその力を、オレはたったひとりの弟子を使うために使った。

「……どうしてあのとき、力を貸してくれたんだ?」

 九尾や八尾のように、生前に尾獣と対話する気はさらさらなかった。ある程度力をコントロールできていたのは、こいつが見た目の通り大様な性格だったからだろう。
 ずっと心に残っていた疑問を精一杯問いかけたはずなのに、犀犬は何も言わず優しく微笑んだ。そして小さく呟く。

「さあな、忘れちまったよ」

 屈んでいた犀犬が大きく背筋を伸ばす。どんな表情をしているのかオレの位置からはわからない。

「悪いな、もうあまり時間がないんだ」

 まだ仲間が戦っている。この戦争を止められるのはあの少年しかいない。続いた犀犬の言葉に黙って頷く。尾獣と友達になる――そんな馬鹿げた夢を笑顔で語った少年に、オレたちは全てを託すしかない。

「オレやよ、ウタカタのこと……わりと好きだったぜ」

 別れの瞬間、犀犬が独り言のようにそう言った。その言葉にあっと不意を突かれたように顔を見上げる。矢継ぎ早に紡いだ声は届いたのだろうか。犀犬は生きている。今度こそオレは終わりだ。魂を導くように身体が光に包まれる。

「ありがとう……犀犬」







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