あのひとはいない

 頬を伝った涙が、ぽたりと地面に落ちる。血が滲み出ていた傷口には、もう薄い瘡蓋ができていた。太陽が昇っていたはずの空は紫色に染まり、目に映る景色は闇に飲み込まれていく。早くここから動かなければ。そうわかっていながらも、身体を動かす気力はなかった。力の抜けた足を地面に着かせたまま、頭を垂らす。

「ウタカタ師匠」

 乞い焦がれていた大切な人。誰よりも優しくて、強くて、尊敬できる人だった。長い間待ちぼうけを食らっても、諦めることなんてできなかった。師匠は必ず戻ってくる。師匠が私を裏切るはずがない。ただ純粋に、師匠を信じ続けていた。なのに、
 また溢れ出した涙と一緒に、突き刺すような黒く冷たい視線が蘇る。今まで向けられたどんな視線よりも、辛くて、怖くて、非情な眼差しだった。その恐ろしさに、膝を抱えて瞼を強く閉じる。戻ってくるどころか、私の問いかけに、答えてすらくれなかった。師匠につけられた傷は、決して深くはないのに、そこから絶えず血が溢れ出ているような、鈍い痛みを伝えてくる。暗闇の中でも機能する、忍の目が憎かった。全て終わってしまえばいい。このまま暗闇に飲み込まれて、全部忘れてしまいたい。

「ホタル?ホタルなのか?」

 耳を塞いで目を瞑っていると、懐かしい声が私を呼んだ。驚いて顔を上げると、暗闇の中を照らすようにチャクラを纏った、ナルトさんの姿があった。

「ナルト……さん?」
「お前、こんなところで何やってるんだってばよ!身体も傷だらけだし、そもそも今は……」

 目を腫らした私の顔に気がついたのか、ナルトさんが表情を変え、険しい視線で私を見つめる。その視線に答える気力すらなく、ただ茫と、ナルトさんの姿を見つめた。

「どうしたんだよ。こんなところで、何があった!」
「…………」

 私の肩に、ナルトさんの暖かい手が触れる。久しぶりに感じた温もりに、口元の力が緩み、情けない嗚咽が漏れてしまった。両手で顔を覆い、師匠の名前を呼ぶ。途切れ途切れに、抑えていた悲しみをナルトさんに伝えた。私は、師匠に、——ウタカタ師匠に、嫌われてしまった。

「ホタル……」

 全てを話し終え、嗚咽を漏らすだけになった私の身体を、ナルトさんが支えてくれる。肩に添えられたナルトさんの手は、小刻みに震えていた。不思議に思って顔を見上げると、眉間に皺を寄せながら、苦い顔をして唇を噛みしめている。

「ナルトさん?どうし……」
「ホタル、よく聞いてくれ」

 力強い声音に、肩がぴくりと震える。険しい顔をしたまま、しっかりと私を見つめるナルトさんに、身構えるように顎を引いた。嫌な予感が、身体中を駆け巡る。

「今、木ノ葉の里は戦争をしている。忍五大国を巻き込んだ、第四次忍界大戦ってやつだ。今もたくさんの忍が戦っていて、この近くも戦場になっている。オレは、皆を助けるために、影分身を使って戦場を回っていたところだ」

 ナルトさんが視線を逸らして、肩に置いた手のひらに力を入れる。強く肩を掴まれながら、取り残されそうになる思考を、懸命に巡らした。私が砦で師匠を待っていた間に、そんなことが起こっていたなんて。驚きのあまり言葉をなくす私を、再びナルトさんの視線が捕らえた。何かを決意したような、意思をもった眼差し。視線が重なって、思わず息を呑む。肩に食い込むように置かれた手が、大きく震えた。

「……今回の戦争は、生きてる人間だけじゃねえ。死んだ人間も、穢土転生って術のせいで、物を言わない、——殺戮兵器にされている。穢土転生された人間は、思考を術者に制御されて、自分の意思とは関係なしに動かされる。そして、…………穢土転生された人間は、瞳が黒ずんでいるんだ」

 どくん。と、心臓が大きく跳ねるのを感じた。瞳孔が大きく開き、唇を噛みしめたナルトさんの顔を、吸い込むように見つめ返す。

「ウタカタは……たぶん、その穢土転生って術にかかっている」




 全ての時が止まったかのように、辺りの音がぴたりと止んだ。風の音すら聞こえない静けさの中に、嫌な響きを繰り返す自分の鼓動と、ナルトさんの震えだけが伝わる。

「何を……言っているのですか?師匠が死んだなんて、そんな……」

 曖昧に口角を上げながら、掠れた声を絞り出す。嘘だ、全部嘘に決まっている。これは何かの間違いだ。だっておかしいじゃない。師匠が戻ってこないなんて。師匠が私を襲うなんて。師匠が、もう、死んでいるなんて。
必死に平静を装いながら、ナルトさんから目を逸らす。奥歯がガタガタと震えて、心臓が弾けそうなくらいに大きく脈を打った。呼吸を整えるために深く息を吸い込み、唾を飲み込む。垂れ下がりそうになる口角を無理矢理上げながら、声を出そうと唇を開いた。

「つまらない冗談はやめてください。師匠はものすごく強いんですよ?ナルトさんは、師匠のことをよく知らないから……」
「でも、それしか考えられねえ。ホタルが言っていた黒い衣の男も、ウタカタの黒ずんだ瞳も、全部穢土転生の条件に当てはまっている」
「嘘です!ウタカタ師匠が死ぬはずがありません!だいたい……師匠が亡くなったとして、どうして穢土転生なんかされる必要があるのですか?師匠はただ、ツルギさんに旅の許可を貰いにいっただけで、すぐに戻るって……」
「わからねえ。ウタカタがどうして死んだのか、どうして穢土転生されたのか。けど……それしかないんだってばよ。ウタカタがホタルを傷つけるなんて、操られでもしない限り、ありえねえだろ!?」

 静かな森の中に、ナルトさんの怒声が木霊する。その声に、遠のいていく師匠の背中を思い出して、大きく目眩がした。
 わからない。何もわかりたくない。ウタカタ師匠が、もうこの世にいないなんて、そして、殺戮兵器として、戦争の道具にされているなんて、どうやって信じたらいいんだろう。「ここで待っていろ」って、師匠は確かに言ったの。旅の許可を貰ってくるだけだって、私を弟子と認めてくれて、一緒に旅に出てくれるって。
 脳内を巡る現実を、頭を振って必死に拒絶する。そんなこと、ありえるはずがない。あの時の師匠には、きっと、何か理由があったんだ。それは穢土転生なんかじゃない、もっと他の理由が、きっとあったんだ。
 耳を押さえて事実を遠ざけようとするけれど、どこかで納得してしまっている自分がいる。師匠が帰ってこない理由も、私を襲った理由も、ナルトさんの話なら、全て辻褄が合う。頭を上げて、縋るようにナルトさんを見つめた。愁いを帯びた瞳が、小刻みに揺れている。

 冷たい風が、微かに頬の涙の跡に触れた。言葉もないまま、常闇となった地面に視線を落とした。打ちひしがれたように、表情を作っていた顔の力が抜けていく。ぼんやりと霞む思考の中に、師匠の姿が浮かんだ。約束の場所で、最後に見た、優しい笑顔。それを打ち砕くような、冷たく無表情な黒い視線。私が探していたウタカタ様は、もういない。何も伝えられないまま、遠いところへ逝ってしまった。

「……ホタル、お前は土蜘蛛の里に戻れ。ここは危険だ。ウタカタの事は、オレがちゃんと調べる。だから、早くここを離れて、」
「嫌です」

考えるより先に、言葉が口を衝いて出た。耳に当てていた両手を、自分の二の腕へと回す。ナルトさんの支えから外れて、項垂れていた頭を上げた。

「嫌です。このまま里へ帰るなんて、そんなことはできません」
「ホタル!」
「私はウタカタ師匠の弟子です。師匠が苦しんでいるのなら、それを支えるのが弟子の役目。師匠と弟子は互いに想い合うものだと、ナルトさんも仰ったでしょう?」
「それとこれとは話が違う!ホタル、これは戦争なんだ。お前の力じゃ、どうにもならねえ。ウタカタだって、今は敵に……」
「ナルトさん」

 両腕に力を入れて、自分の身体を抱きしめた。目を閉じれば、あの時の光景が蘇る。
 全てが終わる瞬間に、ウタカタ師匠は、私を受け止めてくれていた。禁術の力で、師匠を傷つけてしまった私を、師匠は許してくれた。自分の意思とは関係なしに、人を傷つけてしまう恐怖を、私は知っている。その恐怖の中に、大切な人がいるのだとしたら、私は黙ってなんていられない。どんなウタカタ様でも、受け入れてみせよう。例え傷つけられたって、命を奪われてしまったって、このまま逃げるよりは、ずっとマシだ。

 瞼を開いて、ナルトさんを見つめる。口元を引き締めて、ゆっくりと息を吸い込んだ。

「お願いです。私を師匠の元へ連れて行ってください。守らなくていい。傷ついたって、命を落としたってかまいません。ただ、こんな終わり方は嫌なんです。私を、ウタカタ師匠に会わせてください」

 涙の跡を拭って、自分の足で立ち上がった。怖くなんてない。私はウタカタ様の、弟子なんだから。
 覚悟を決めて、師匠が消えた森の奥を見据える。その先にあのひとがいなくても、私は、立ち止まったりなんかしない。





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