ある、晴れた日の朝

 なんてことのない朝だった。特別目立ったこともなく、思い出すのも難しいほど、無個性な朝。しいて言うなら、とても穏やかな朝だったのかもしれない。雲も少なく、暑くもなく、寒くもなく。うん、やっぱりなんてことのない朝だ。
 そんな日に、何かが起こるなんて、人間は考えもしないのだけど、そんな日に限って、何かが起こったりもする。嵐の前の静けさ。嵐、と呼ぶには、少々小さすぎるけれど。

「何をぼうっと突っ立っているんだ」

 2、3歩先を歩いていた師匠が、こちらを振り向いていた。特別苛立っているわけでもなく、純粋に、動かない私を不思議に思うような表情で。

「蟻が、足下にたくさんいるんです」
「……それが、どうした」
「今日は晴れているから、虫たちも、一段と元気なのかなって」

 淡々と答えた私に、師匠はため息をつくのも忘れたように、呆れと驚きに混じった顔をした。その姿を見ても、私は動く気にはなれない。
 だって、今日はこんなに穏やかな朝なんだ。鳥は空を舞い、蟻たちはせっせと餌を運び、風は髪をすくい上げる。
 そんな日に、里へ帰ろうなんて言う、師匠が悪いんじゃないか。心の準備も、体の準備も出来ていない。私は、これからもずっと、師匠と旅を続けるんだと思っていた。一流の忍になって、一族の復興を遂げるまで。否、遂げたあとも。

「だから、里に帰って、遁兵衛に会いに行くんだろう。これからのこと、何も話さないわけにはいかない」

 無意識に、口に出ていたのだろうか。少し苛立った様子の師匠が私の前に来て、そして手を引いた。足が蹌踉けた私は、自然と師匠との距離が近づくことになる。見上げた顔は、相変わらず無表情だった。と思っていたのに、どこか不安気な視線が、私を見つめている。

「——嫌なのか?オレと里へ帰るのが」
「まさか。久しぶりに遁兵衛に会えるのは嬉しいですし、それに、師匠の言う通り、何も話さないわけにもいかないなって」
「だったら、どうしてそんな態度なんだ」
「あまりにも、突然、だったから」

 なんてことのない朝だった。宿で朝食を食べて、荷物をまとめる、いつも通りの時間。そんなときに、あんなことを言う師匠がおかしいんだ。普通、朝になんて言わない。言うとしても、もっと、なんというか、記念日とか、そういう時に言うものだろう。それをあんな、仕度のついでのように伝えるから悪いんだ。不安に思うのは、むしろ、私の方なのに。

「婚姻の約束って、もっと、厳かに伝えられるものだと思っていました。それをあんなにあっさりと言われるなんて、なんだか拍子抜けです」
「…………仕方ないだろう。オレは、世間が考えるような、そういったパフォーマンスは苦手なんだ」
「わかっています。だから、師匠らしいな、とも思います。けれど、受け止めるまで、時間がかかるのも、多めに見てください。指輪も、花束もないんだから。私には、師匠の言葉しか、ないんだから」

 掴まれていた手が、自然と繋がれる形に変わる。あっさりと伝えられた言葉に、あっさりと応えたのも私だ。答えははじめから決まっていた。特別ロマンチックな言葉が欲しかったわけじゃない。私と師匠には、これが最適なんだろう。薔薇の花束を抱えた師匠なんて、見ているこっちの方が、恥ずかしくて逃げだしてしまいそうだ。

「悪かったよ。確かに、突然すぎた」
「なぜ、あのタイミングで?」
「さあな。ただ、ずっと言おうと思っていた。それが、口に出たのがあのタイミングだった。我ながら失敗したと思ったよ。けれど、お前は受け入れてくれた」

 歩き出した私たちの間で、繋いだ手が揺れる。相変わらずの穏やかな天気は、デート日和のように感じた。考えてみれば、私たちは師弟で、決して恋人同士ではなかったはずなのに。

「受け入れますよ。私は、師匠の弟子ですから」
「ホタル――」
「お嫁さんになっても、おばあちゃんになっても、私はずっと、師匠の弟子です。そして、ずっと、ウタカタ様のことが、好きなんです」

 見上げた師匠の目が、少しだけ見開いて、すぐに弧を描いた。青空に映える、とても優しい笑顔だった。

「ああ、そうだな。オレも、ずっとお前の師匠で、ずっと、ホタルのことが好きなんだろうな」

 なんてことのない朝から、私たちの1日は始まる。それは、これまでもこれからも変わらなくて、永遠に、繰り返されることなんだろう。
 それで良いと思った。私たちに特別なんていらない。ただ、師匠の傍にいて、笑っていられれば、それだけで、私は幸せだ。