月酔い

 これはたぶん、叶わなかった夢の続き。空を見上げれば、透き通るような青がどこまでも広がっていて、小鳥は森の中を囀り回る。
 私の隣にいるのは、大好きなウタカタ師匠。腕を組んで、私の方を見ないようにしながら、歩く速度は私が急がないように、ゆっくりと落ち着いている。そんなさりげない優しさが嬉しくて、私は大きな声で「ウタカタ師匠」と名前を呼ぶの。そうすると、「なんだ、ホタル」ってぶっきらぼうな振りをしながら、腕組みを解いて目線を向けてくれる。決まり事のように合った視線に、私は尚更喜んで、「なんでもないです」なんて言いながら、そっと師匠の着物を掴む。
 青い空、青い海、青い青い、私だけの師匠。言葉にならない幸せが、歩幅に合わせて揺れる着物から伝わっていく。ふうわりふうわり、靡く風を目に映すように、師匠は黙ってシャボン玉を吹いた。チャクラで包まれた割れないシャボン玉が、風の軌道をなぞっていく。
 その動きを目で追っていると、ふいに師匠の動きが止まって、名前を呼ばれた。

 ホタル。

 近くにいるはずの師匠の声が、やけに遠くから聞こえる。目を開けているはずなのに、瞼が凍ったように、顔に貼り付いて動かない。

 ホタル、早く目を覚ますんだ。
 何を言っているの、ウタカタ師匠。私はとっくに起きて、師匠と旅をしているじゃありませんか。

 唇を尖らして文句を言うと、師匠の顔が、涙を流すように真下に歪んだ。空は相変わらず綺麗な色で、小鳥たちも元気に歌っている。それなのに、私と師匠の間だけ、太陽が照らしてくれない。

 ホタル、お願いだ。目を覚ましてくれ。お前までこっちに連れて行くわけにはいかない。
 なんで?どうして?ウタカタ師匠。どうして私を一緒に連れて行ってくれないの。私を弟子にするって、逃げるのはやめだって、あの時に言ったじゃないですか。

 私を突き放そうとする師匠の手を、思いきり掴む。初めて握る師匠の手は、驚くくらいに冷たかった。それが悲しくて、私まで泣きそうになりながら、師匠の顔を見つめる。
 嫌だ、嫌だ、離れたくない。やっと夢が叶ったんだ。これから私は、師匠と2人、旅をして、ウタカタ師匠に負けないくらい、強い忍になる。そうして、いつか土蜘蛛一族を復興させて、お爺様の夢を叶えるんだ。その願いを叶える一歩を、私はまだ踏み出したばかりなのに。

 ホタル、ホタル。頼むから、目を覚ましてくれ。オレは、お前だけは、失いたくないんだ。
 ウタカタ師匠、さっきから何を言っているんですか?私はちゃんと、起きていますよ。
 違う。ホタル、お前は起きてなんかいない。目を閉じて、耳を塞いで、夢の中へ逃げているだけだ。オレと共に旅をして、土蜘蛛一族を復興させるという夢をな。

 師匠の手が、私の手を握り返した。空が反転して、辺りが闇に包まれる。小鳥たちは屍に変わり、真上には赤い月が浮かんでいた。ぐるぐると、見たことのないウタカタ師匠の瞳が、目の前で回り続ける。

 ホタル、お前はこっちに来てはいけない。いますぐオレの手を振りほどくんだ。オレはもう、お前と一緒にはいられない。

 言葉とは反対に、師匠の手は、私を抱き寄せるように、ぐっと自分の方へと動いた。冷たい手が頬にも触れて、無理矢理上を向かされる。渦を巻いた瞳と、赤い月が重なって、大きな目眩がした。師匠の顔が、妖しく微笑む。

 ホタル、お願いだ。目を覚ましてくれ。ホタル、お前は、お前だけは、生きてくれ——

 絞り出すような師匠の声に、私は涙を流しながら、近づいてきた身体を押し返した。優しい笑顔が、いつでも私を守ってくれた温もりが、音を立てて離れていく。
 こんなことはしたくなかった。例え幻でもいいから、ずっと師匠と一緒にいたかった。けれど、それが師匠を悲しませることになるのなら、私は師匠を、ウタカタ師匠を、消してしまわなければいけない。

 ホタル、お前は生きろ——

 最期に飛んできた師匠の願いは、ずっと私の中に残っていた。だから私は、始めから知っていた。師匠がもう、この世にいないことも。歩き始めたあの一歩は、全部幻想の、淡い夢でしかないことを。
 バランスを崩した師匠の身体は、大きな烏に変わって、四方に散らばった。渦を巻いていた目玉が地面に落ちて、私を見つめながら粉砕する。
 赤い月は、そんな私を嘲笑うかのように、いつまでも浮かんだままだった。夢に溺れていれば、いつまでも幸せでいられたものを。そんな憫笑が、どこからか聞こえてくる。

「ホタル、それでいいんだ。そのまま目を開けろ。そこにオレがいなくても、お前ならやっていける。お前はオレの弟子だろう?大丈夫、ホタルなら、こんな力に頼らなくったって、絶対に夢を叶えられるさ」

 遠かったはずの師匠の声が、耳元で聞こえる。暖かい温もりが左手を覆って、それから一筋、涙が零れた。

「ホタル、お前は生きるんだ。辛くたって悲しくったって、生きて生きて生き延びるんだ。ホタル、師匠と弟子は、互いに想い合う者なんだろう?だったら、例え姿が見えなくとも、命がなくなろうとも、離れることはないはずだ。オレを信じろ。ホタル、お前は大丈夫だ」

 暖かかった左手の温もりが、全身を包み込む。貼り付いていた瞼を開けると、そこには何も変わらない、砦の姿が佇んでいた。空は相変わらず、陰鬱な色に染まっている。赤い月も、そのままだ。世界中で一人だけ、私は目を覚ましてしまった。

「ウタカタ師匠」

 それでいいのだと、師匠が私の隣で微笑む。夢の続きは、二度と現れない。
 私は冷たい岩の上に座ったまま、赤く染まる月を、見つめ続けた。