さようなら



※学パロ

「もしもし、オレだけど」

 久しぶりに聞いた先生の声は、記憶の中よりちょっぴり低くて、私は不覚にもドキッとした。

 卒業してから2週間。今までは、毎日聞いていた声。夏休みだって冬休みだって、先生に会いたくてほとんど毎日学校に通ってた。先生の声を忘れたことなんてなかった。実際忘れる暇もないくらい、私は先生のことを考えていたわけだし。
 だから、私は自分にびっくりした。ここ最近、先生のことを考えてなかった。ううん、わざと考えないようにしていた。高校を卒業して、地元を離れて、先生にだって、もう今までのように気軽に会えなくなる。
 せっかく交換した番号も、1回もかけずに放置したまま。電話をかければ、声を聞けば、私は先生に会いたくなってしまう。ここを離れられなくなってしまう。

「どうしたんですか、いきなり」

 掠れたような震えたような声が、携帯から先生に伝わる。まだ1分も話していないのに、手の平に伝わる温度はものすごく熱い。緊張しているのがバレないように、意識を集中させて呼吸を小さくする。酸素が、苦い。

「声、聞きたいと思って」

 耳に届いた低い声が、鼓動を一層速くする。意味もなく涙が出そうになって、慌てて上を向いた。顔はごまかせても、声はなかなかごまかせない。小さく深呼吸をして、携帯に向かいなおす。

「めずらしいですね。先生がそんな乙女チックなこと言うなんて」
「そうか?でも、本当のことだ」

 さらっと口説き文句を言ってしまうのがこの人。面と向かって言われるのと、久しぶりの電話で言われるのでは、後者のほうが心臓に悪い。1人で焦っている自分が恥ずかしくて、つい余計なことを言ってしまう。

「私は、先生の声を忘れていました」

 言葉になった事実に、また泣きそうになる。携帯の向こうでは、先生が笑いながらひどいな、って呟いた。

「まだ2週間だろ」
「もう、2週間です」
「オレは、お前の声を忘れてなかった」
「そうですか」
「反応が薄いな」

 短い笑い声が聞こえて、胸が苦しくなる。遠くで小さく、信号機の音がした。今、どこにいるんだろう。仕事帰りかな。学校、在校生はいつまであるんだっけ。春休みには、もしかしたら。

「本当は今すぐ会いたい」

 沈黙の間に巡らせていた思考が、はたと止まる。真剣な声。私を困らせるための言葉じゃなくて、本当の、先生の気持ちだ。私にはそれがわかる。ずっと、聞いてきた声だもの。

「会って、どうするんですか」
「どうもしないさ。ただホタルの顔を見て話せれば、それでいい」

 さらりと呼ばれた名前。在学中はどんなに頼んでも呼んでくれなかったくせに。先生は、ずるい。

「先生はずるいです」
「どうしてだ?」
「私が言いたくても言えないこと、全部言っちゃって。なのに私は、なにも言えなくて」

 好きの一言も、最後まで伝えさせてくれなかった。私たちはどこまで行っても、先生と生徒。それ以上にはなれない。許してくれない。

「私、忙しいんです。今までと違って。そろそろ切ります。おやす——」
「待て、ホタル」

 電源ボタンに親指を重ねた時、先生の声が耳に届く。少し焦った声。期待してしまう自分が嫌い。

「まだ、切りたくない」

 所詮、叶わない恋なのに。自分がこんなに一途だなんて知らなかった。入学して、副担任として紹介されたあの時から、私は先生の虜。3年間の片想い。この春で、終わりにしようと思っていたのに。

「いつ、行くんだ」
「え?」
「いつ、ここを離れるんだ」

 先生の言葉に、部屋に詰まれた段ボールを見つめる。3月いっぱいで、この部屋とはお別れ。生活に必要な物以外は、もう向こうに送ってある。

「4月には、もう向こうに行く予定です」
「そうか」
「……先生」

 なんだ、と短い返事が返ってくる。呼び止めて、私はどうしたかったんだろう。このまま離れられれば、電話なんてこなければ、私はあなたを、忘れられたはずなのに。

「先生、好きです」
「…………」
「好き、です」

 言葉になった気持ちに、我慢していた涙が溢れてくる。好き、好き、好き、好き。3年間の想いが伝わるように、何度も繰り返した。叶わなくていい。ごまかされてもいい。この気持ちを、なかったことにしたくない。

「好きなんです。私、先生のこと」
「……オレも」
「へ?」
「オレもだ。好きだ、ホタルのこと」

 ずず、と鼻水を啜る音と、私の間抜けな声。ぐしゃぐしゃになった顔を拭いて、さっきの言葉を反芻する。

「う、そ」
「嘘じゃない。だからこうやって、わざわざ電話をかけたんだろう」
「でも、今までそんな」
「焦るホタルも可愛いかったからな」

 そんな理由で3年間も私は悩んでいたなんて。怒って文句を言えば、先生は笑ってそれを受け流す。
 ほんとう、なんて性格をしているんだろう。思いつく限りの罵声を浴びせていたら、突然優しい声で名前を呼ばれる。その後に続く、告白。

「好きだ、ホタル」

 落ち着いてきた呼吸に、先生の言葉がじわりと染みる。嬉しさと戸惑いと、でもやっぱり嬉しくて、私は初めて、電話越しに笑顔を伝える。

「先生」
「先生はやめろ。名前で呼べ」
「ウタカタ……さん」
「さん付けかよ」

 先生のツッコミに、私はまた声を出して笑う。それに合わせて、先生……ウタカタさんも笑った。胸の不安が溶けて、今なら何だってできる気がした。恋の力って、すごい。

「もっと話したいが、悪い。充電が切れそうだ」
「いいです。もっとゆっくり、できれば会って話したい」
「そうだな。ホタルが向こうへ行く前に、ちゃんと会おう」

 耳に届く声に、目を閉じながら頷く。腫れた目が少し痛くて、でもすごく幸せで、何度も何度も、無言で頷いた。

「おやすみ、また明日」
「はい」
「今度はホタルから電話しろよ」
「わかりました」

 それからまた、2人で声を合わせておやすみを言う。通話が終わった音が耳に届いて、携帯をゆっくり閉じた。
 また、明日。熱くほてった携帯を握りしめて、先生の名前を呟いた。