夏の思い火

   やわらかい風が吹き抜ける空を、ウタカタは仰ぎ見る。薄く白い雲が青い空に溶け込み、穏やかに動いていた。ただ安らかに、時が流れている。ウタカタが1歩足を踏み出す度に、黄色い花弁が辺りに舞った。くるくると軌道を描きながら地面に落ち、またふわりと風に乗る。ウタカタは花弁に導かれるように、約束の岩へと足を進めた。その気配を感じて振り返ったホタルが、目を細めて微笑む。

「お久しぶりです、ウタカタ師匠」

 岩から降りて自分を見つめるホタルに、ウタカタは短く言葉を返した。何を言うべきか、何から話すべきか。ここに来るまでに考えていたはずの言葉は、ホタルの顔を見た瞬間に、無意味なものに変わっていた。
 何も言わないまま1歩ホタルに近づき、柔らかな頬に手を添える。その手にホタルは自分の手を重ね、ウタカタの感触を噛みしめるように目を閉じた。お互い何も話さないまま、ただ出会えたことを確認するだけの時間が過ぎていく。残された時間に気づいたのか、優しい沈黙を破るように、ウタカタはホタルから手を離した。

「随分と、待たせちまったな」

 ぽつりと呟いた言葉に、ホタルは黙って首を横に振る。頬から離れた手を名残惜しむように、両手で包んだまま自分の胸へと当てた。

「こうしてまた会えただけで、私は充分です」

 ウタカタの指に自分の指を絡ませると、ホタルは切なげに目を閉じて、重なった指先に唇を落とした。掌に感じる温もりは、ウタカタのものではない。降り注ぐ陽の光が、穏やかな風が纏う熱が、ウタカタの温かさのように思えてしまうだけだ。ホタルはそれを知っていた。知っていたからこそ、ウタカタの手を離したくはなかった。

「お別れなんですね。せっかく、会えたのに」
「……すまない」
「謝らないでください。私は、師匠と離れるのは寂しくて、泣いちゃいたいくらいですけど、これっぽっちも、怒ってなんて、いませんから」

 ホタルは顔を上げ、ウタカタの瞳を見つめた。震える瞼を必死に開きながら、ウタカタの表情を目に焼き付ける。

「だから、ウタカタ師匠。泣かないでください。私はいつだって、どんなに時間が経ったって、ウタカタ師匠を、待っています」

 ホタルの右手が自身の頬を包んだとき、ウタカタは初めて、自分が泣いていることに気づいた。命はそこにないはずなのに、生前に残した後悔が、チャクラだけとなったウタカタの身体に、温かい涙となって流れていく。

「私は大丈夫です。師匠が最期まで、私を想っていてくれたこと、ちゃんと知っています。師匠の想いは、全部伝わっています。だから、もう、後悔なんてしなくていい」

 ホタルが踵を上げ、ウタカタの頭を両腕で包み込んだ。約束の場所だけを創っていた世界が、徐々に色褪せていく。
 それは、一種の賭けだった。死に際に飛ばしたシャボンに遺したチャクラが、いつかホタルの世界と重なるように。多くのシャボンを飛ばした分、ひとつひとつに掛けられる時間は僅かなものになってしまった。それでも、少しでも多く、ウタカタは可能性を残したかった。
 念願叶った再会は、ウタカタを縛り付けていた後悔を解かしていった。ウタカタが言葉にするよりも早く、ホタルはウタカタの想いを察し、その向こうにある悲しみを癒やそうとした。身体に伝わる温もりに、ウタカタはホタルの腰へと手を回す。ウタカタの中に残っていた蟠りは、ホタルの腕の中で完全に消滅した。それと同時に、ウタカタの身体も、シャボンのように弾け飛んだ。

「さようなら、ウタカタ師匠」
 
 草原の中に立ち尽くす岩を見つめ、ホタルは呟いた。夏の夜空に、星が瞬いている。遠く果てしない空を見上げて、ホタルは自分の頬に触れた。ウタカタが遺した涙の跡が、ホタルの頬に僅かな湿り気を残す。冷たい風がそれを乾かすのを感じながら、ホタルは空に向かって微笑んだ。
 淡い光を灯す夏の虫が、花弁のようにホタルの近くを舞っている。安らかな時は、ホタルの背を押し、流れていく。