アイの贖罪
「これは、どういうつもりなんだ?」首に突きつけられたクナイを見て、ウタカタは低い声で呟いた。その声を受けたホタルは、いきなり開かれた目と口に出された台詞に、驚愕の表情を浮かべながら声を失った。
静かな夜に、蜩の鳴き声が響いている。昼と夜を間違えたのか、それとも最期の力を振り絞っているのか。狂ったような鳴き声は、2人の間に漂う空気を、一層硬くさせた。ホタルが唾を呑む音が、辺りに反響する。
「オレを、殺そうとしていたのか」
横たわった自分に覆い被さるホタルの目を真っ直ぐに捉えながら、ウタカタは愉しそうに口角を上げた。怯えたように震えたクナイが、ウタカタの視界の端に映る。目を見開いたまま青ざめていく女の表情は、一種の興奮のようなものを生まれさせた。
殺されかけているというのに冷静なままの自分に、ウタカタはもう1度口角を上げた。妖しいその笑みが、女に恐怖を与えたのだろう。ホタルは結んでいた唇を開き、微かに息を漏らした。瞳孔を頼りなく開けたまま、肩を激しく上下させている。
「お前も一緒だったんだな。弟子になりたいとほざいておいて、結局はあいつらと同じだ。オレの首に賭けられている賞金が欲しいのか?無邪気な面をして、とんだ悪党だな。え?」
矢継ぎ早に放たれる言葉に、ホタルはクナイを床に落として顔を覆った。力なく首を振りながら、ぶつぶつと唇を動かす。いつの間にか、蜩の声が止んでいた。地面に仰向けに落ちた蜩を月の光が照らしている間に、ホタルの声はだんだんと大きくなる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
呪文のように唱えられる謝罪の言葉に、ウタカタはため息をついた。ホタルの目から流れた涙が、布団の上に点々と染みを作っていく。
仕方なく身体を起こすと、ホタルはびくりと肩を強ばらせた。嗚咽が止まらなくなった喉を押さえながら、相変わらず見開いたままの目で、ウタカタを見つめ返す。
「殺すつもりはなかった。貴方の弟子になりたいと思ったのは本当です。でも、でも……」
ぜえぜえと息を吐き出しながら紡いだ言葉に、ホタルはついに噎せ返った。青ざめていた顔が、苦しそうに赤く染まっていく。ウタカタはその様子を無表情な瞳で見つめながら、横に転がったままのクナイを手に取った。冷たい感触が、指先を通して、脳に伝わる。
「霧隠れの追い忍に言われたのか。オレを殺せば、一族を救ってやると」
ウタカタの言葉に、ホタルは息を止めた。それを見て、ウタカタはまた口角を上げる。
「いや、違うな。あいつらはそんな条件は出さない。ウタカタを殺さなければ、一族を滅する……こっちのほうが有り得るだろう」
完全に動きの止まったホタルに、ウタカタはクナイを握りしめた。さっきまで感じていたはずの憎しみは消え失せていた。かわりに身体の芯が氷柱のように冷え、尖っていく。
その感覚の原因が、自分が傷ついているせいなのだと、ウタカタは気づかなかった。否、気づこうとしなかった。ただ、目の前で噎び泣く女が哀れで仕方なかった。自分と出会ってしまったがために、背負う必要もない罪を犯してしまうところだった。——それとも既に、女は手遅れなのかもしれない。
クナイを自分の首へ向けると、ウタカタは大きく息を吐き出した。緩んだ口角は、今までの笑みとは違う、諦めと幸福の混じった、見たことのないような優しい表情を作っていた。
「ウタカタ様……?」
「お望み通り、死んでやるよ。お前には世話になったな」
大きく振りかざしたウタカタの手に、ホタルの悲鳴が降り注いだ。蜩を包んでいた月影が、血に染まった障子を煌々と照らす。その後には、ホタルの半狂乱になった声が暫く響いていた。やがてそれも止まると、夜が明け、何事もなかったかのように、太陽が燦々と辺りを照らした。
その日のうちに、霧隠れの追い忍が見つけたのは、布団の上で血まみれに横たわる、男女の遺体だった。赤く染まる男の首筋に縋るように手を回したまま、女は胸にクナイを突き立てていた。
それから2人がどうなったのかは、誰も知らない。ただ、蜩の狂い泣きが聞こえる度に、月は思い出すという。あの日、命を絶つ間際に呟いた、男の愛の言葉を。