さよならをうたう前

 緩やかに結んでいた唇を開き、つっと息を吸い込んだ。この世とあの世の狭間、1度見たことのある景色に包まれながら、ふわりと浮かぶ身体を、流れに任せて泳がせる。
 胸を覆っていた痛みは、もうどこにもない。代わりに安らかな温かさが、全身を包んでいた。触れられていた頬に、優しい感触が残っている。

 ホタル

 名前を呼ぶと、ホタルがどこかで微笑んでくれているような気がした。釣られるように口角を上げ、ゆっくりと瞬きを繰り返す。身体が、命が、消えていく。けれど、恐怖はそこにない。顔の前に伸ばした指先を、涙を拭うように動かした。オレを想い、オレのために泣いてくれる人がいる幸せを、今さらのように噛みしめる。

 なあ、犀犬

 腹の奥にいたそいつに呼びかけると、昼寝を邪魔されたときのように、片目だけを開けてこちらを見つめ返した。もっと早く、心を開いていれば、こいつとも、分かり合えたのかもしれない。取り戻せない時間に眉を垂らしながら、光の先を見つめた。吸い込まれていく、温かい、安らぎの中へ。

 残して逝く者と、残された者、どちらが不幸せなんだろうな
 ……さあな

 ありがとうと、ホタルは言ってくれた。オレに出会えて良かったと、ホタルは言ってくれた。例え、どちらかが不幸な終わり方なのだとしても、オレたちは、後悔をすることはないだろう。
 消え消えとする意識の中で犀犬を振り返ると、微苦笑を浮かべながら、こちらに手を差しだしてきた。人柱力と尾獣、あの世への道程がひとりではないのが、人柱力の良いところか。
 犀犬と同じように笑みを浮かべながら、意識をあの世に預けていく。
ホタルがオレを救ってくれたように、オレもオタルを救えたのなら、思い残すことは何もない。最期に会え、別れを告げられた。ずっと言いたかった感謝の言葉を、遺すことができた。充分すぎる、オレの死に際。
 さよならをうたうのは、ホタルが旅立つときでいい。今はまだ、少しだけ、縋りついていたい。
 オレはいつでも、ホタルの傍にいるのだろう。風の中に、空の中に、ホタルの心の中に。身体も命も失っても、消えない想いがある。くるりと世界が反転する。オレの終わりが近づいてくる。

 ウタカタ
 何だ?
 ……なんでもねぇ

 初めて握った犀犬の手は、ホタルのそれと同じくらい、温かかった。
 ウタカタ様、とホタルがオレの名を呼ぶ。その声に返事を返すと同時に、目の前が、真白な光に、包まれていった。


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