ふこうもののはなし
目を開けると、そこには何もなかった。仰向けになっていた身体を起こし、額に手を当てながら辺りを見回す。白というべきか、無色というべきか。どんなに目を凝らしても、何かを捉えることはできない。不審に思い立ち上がるが、視線が高くなっても、状況は変わらなかった。風の音も、息の音も、何も聞こえない。仮に此処が、人工的に作られた檻のようなものだとしても、そこには音が存在するはずだ。しかし、オレの耳には、そんな静粛の音さえも届かない。常に繰り返しているはずの呼吸音も、まるで息が止まっているかのように、音にならない。
一体なんなんだ、此処は。
悪態をつくように言葉を吐き捨てるが、それも音にはならなかった。口に出したはずの声は喉の奥に貼り付いたまま、オレの頭の中だけで響いている。
言いようのない恐怖が、背筋を走った。足を動かし前へと進むが、景色は一向に変わらない。自分がどこへ向かっているのかわからないまま、視線だけを何度も動かした。辺りの色が白だけだとしても、そこには大凡の濃淡が付いているはずだ。けれども、目に映る景色は、どこを見ても同じ色しか映らない。自分の影があるであろう足下ですら、遠く先の色と何の変わりもなかった。
この世界に、影ができない場所があるのか。色の変わらない足下を見ながら、不気味な現象に息を吐き出す。一体此処はどこなのか。なぜオレは此処にいるのか。疑問を頭に浮かべると、そこでひとつのことに気がついた。
何故、今さら――。動揺を隠しきれないように鼓動する心臓に息を詰まらせて、後ろを振り返る。そこに何かが映ることを期待していたのに、景色は前も後ろも、何も変わっていなかった。
此処はどこなのか。オレは何故、ここにいるのか。そして、オレは、誰なのか。
何一つわからないまま、その場に蹲る。着ている青い着物にも、左目を覆う茶色い髪にも、見覚えがない。ふらふらと首を振り、喉を押さえた。悪い夢でも見ているのだろうか。目覚めようと必死に瞼を閉じるが、動悸が激しくなるだけで、何も起こらなかった。
自分のことすら思い出せない空しさに、再び立ち上がる。前に進むほか、何もすることがなかった。いや、進んでいる方向が前なのかすら、オレにはわからなかった。
コツン。
ふいに爪先に感じた感触に、視線を落とす。何もなかったはずの空間に、小さな頭蓋骨が転がっていた。久々に感じる自分以外の物体を、壊れ物を扱うかのようにそっと拾い上げる。人間の、大きさからして子どもか女のような——辺りとは違う、濃淡の付いた白い骸骨のぽっかりと空いた目が、オレを見つめる。
「ホタル」
唐突に口に出した言葉に、思わず唇を押さえた。さっきまで音にならなかったはずの声が、喉をすり抜けて、はっきりと耳に届く。
ホタル?
再び口を動かすが、声が音になることはなかった。代わりに、骸骨の目の中の闇が、オレを誘うかのようにぐるぐるを渦巻いていた。
お前は、誰なんだ。
唇の動きだけで骸骨に問いかけ、それから縋るようにそいつを抱きしめた。何故だか、無性に、愛おしい。膝をついた着物の上に、点々と染みができているのを見つけた。それが、己から零れている涙だと気がつくのに、随分と時間が掛かった。
ホタル
それが、オレの名前なのか、こいつの名前なのか、将又ただの音の羅列なのか、何もわからない。けれども、その言葉を口にする度に、言いようのない後悔と、空しさと、愛おしさが、身体中を駆け巡った。唇から漏れる嗚咽が、だんだんと、音となって、耳に降り注ぐ。
ああ、ホタル。オレは、お前を、救えなかったんだな。
骸骨が砕けるのを感じながら、前のめりに身体を倒す。粉々になった破片が身体に突き刺さり、そのまま吸い込まれるように消えていった。
あとには、何も、何もない。地面に付いていたはずの足が、浮かんでいることに気がついた。けれども、もう遅い。時間は巻き戻せない。過去は取り戻せない。オレがホタルを救えなかったように、オレも救われないのだろう。
瞼を閉じて、消えた骸骨を抱きしめるように自分の身体に腕を回した。此処には始めから何もなかった。そしてこの先も、何も生まれることはない。視界を閉ざしても変わらぬ景色に、諦めたように頬を緩める。何も見えない、何も聞こえない。此処にはオレ自身も、存在しない。