熱帯魚が沈む夜

 シーツを敷いたままのベットに寝そべって、大きく欠伸をした。僅かに開いた窓からは、季節の変わり目の生暖かい風がカーテンを揺らし、室内の空気を循環させていく。
 湿ったままの髪を右手で掻き上げて、額に浮かぶ汗を拭った。風呂に入ったばかりだというのに、今日はどうも蒸し暑い。枕元に置いてあった水を飲み干し、またシーツに顔を埋めた。頬にかかる髪から、甘ったるいシャンプーの香りが鼻に届く。

「ウタカタ様、ちゃんと髪を乾かさないと、風邪を引いてしまいますよ?」

 肩にタオルをかけたホタルが、言いながらベットの縁に腰掛けた。風呂上がりの濡れた髪は、まだ完全に乾いておらず、時折大きな雫が髪を伝い、シーツに染みを作っている。

「そうは言うが、この暑さだ。ドライヤーなんて使ったら、また風呂に入るはめになる」
「確かに、今日は暑いですけれど……こういう季節の変わり目こそ、身体が冷えて、体調を崩しやすいんですよ」

 子どもに言い聞かせるように、ホタルは湿ったオレの前髪に触れた。髪に隠れていた視界が、ホタルが前髪を耳にかけたことによって、一気に広がる。視線だけを動かして、ホタルを見つめ返すと、困ったように眉を垂らしながら、ホタルが口元を緩めた。

「ほんとう、師匠は暑さに弱いですね」
「仕方ないだろう。オレは霧隠れ出身なんだ。太陽は苦手に決まっている」
「もう、今は夜ですよ。太陽はとっくに沈んでます」

 ホタルが濡れた髪を手櫛で束ね、タオルで水分を拭き取っていく。白い手が動く度に、オレのと同じ甘い香りが鼻孔を擽った。肩に掛かりきらなかった髪が背中に垂れ、伸ばした手が触れられる位置まで落ちてくる。毛先を指に絡め、そっと持ち上げた。蛍光灯の明かりに透かすと、まるで絹のように輝き、思わず目を細める。

「だいぶ伸びたな」
「え?」
「前は、もっと短かっただろう」

 腰の辺りまで伸びた髪を軽く引っ張ると、ホタルはああ、と短く返事をした。水気の抜けた髪を撫でるように触り、手にとったままオレを振り返る。

「師匠と旅に出てから、1度も切っていませんから。そろそろ切らないと、邪魔になっちゃうかな」
「綺麗な髪だな。切るのは少し、もったいない」

 身体を起こし、ホタルの髪を口元へ持って行く。愛おしむように口付けると、僅かに唇が湿り気を帯びた。指を広げて手櫛で梳かすと、サラサラと指の間を流れていく。さっきまで濡れていたせいか、普段のようにふわふわと指に絡まることはない。それが新鮮で、ホタルの髪を触り続けた。

「髪の毛なら、師匠のほうが綺麗ですよ。癖がなく真っ直ぐで、羨ましいです」
「男の髪が綺麗でも意味がないだろう。それに、オレはホタルの髪のほうが好きだ」

 ホタルが持っていたタオルを手に取り、丁寧に髪を拭いていく。素直に身体を預けるホタルを見つめながら、膨らみを取り戻した髪を右手で握りしめた。

「明日、オレが切ってやろう」
「ウタカタ様がですか?」
「ああ。安心しろ。変な髪型にはしないから」

 こちらを向いたホタルに微笑みかけると、ホタルは歯を見せながら首を縦に動かした。その動作に、改めてホタルから信頼されていることを感じ、充実感に目を細めながらタオルを仕舞う。

「ありがとうございます、ウタカタ様」
「ああ」
「次は師匠の番ですよ。師匠に風邪を引かれたら、弟子の面目丸つぶれですから」

 向き合って笑い合ったホタルの手が髪に触れ、優しく指で梳かす。外からは相変わらず、生ぬるい風がカーテンを揺らしていた。けれど、なぜか心地よい。風が運ぶ甘ったるい香りに瞼を閉じながら、ホタルに身体を預ける。穏やかな夜に口元を綻ばすと、ホタルの白い指が、優しく頬に触れた。