卯月の朔

 風に煽られて顔にかかる髪を、シラナミは煩わしそうに掻き上げた。木ノ葉の牢獄から解放されて、どれくらいになるだろう。再び土蜘蛛の里に戻ってきたシラナミを、里は意外にもあっさりと受け入れた。否、受け入れざるをえなかった。
 禁術の一件から、もう2年の時が経っている。里に住んでいた人々は散り散りになり、以前の半数も残っていない。一族の復興なぞ夢のまた夢だ。自分がいなくなってから、一体何が起こったのか。その理由を知る少女を、シラナミは冷めた目で見つめる。
 毎日毎日、飽きることなく砦近くの岩に座り、空を眺め続けている女。誰よりも怨んでいるであろう俺が帰ってきたときも、一瞥をくれただけで何も言わなかった。怒る気力も、不満を漏らす余裕もないのだろう。
 緩やかに揺れる花を踏みつけながら、シラナミは少女に近づく。青空を見つめているであろう瞳に、光は灯っていない。

「いい加減諦めたらどうだ」

 呆れたように繋がれたシラナミの言葉に、少女はぴくりと肩を振るわす。朦朧としていた目に力が入り、光を失った視線でシラナミを貫いた。その表情に、シラナミは眉を寄せる。
 昔はうっとうしいほどに汚れのない瞳をしていた少女はこんなにも感情を失ってしまった。その理由を聞いたときに、シラナミは思わず口角を上げた。
 ほら、所詮あの男も俺と同じじゃないか。師匠を殺し、自分を信じていた人間を裏切って、挙げ句の果てに期待だけを残して消えてしまった。結局人間なんてそんなものだ。綺麗ごとばかり言っていたあの木ノ葉の忍が、この事実を知ったらなんと言うのだろう。

「もう2年が経つ。お前だって本当はわかっているのだろう?あいつが、お前を捨てたことを」

 "捨てた"と言う表現が勘に障ったのか、少女はシラナミを睨みつける。それを気にすることなく、シラナミは言葉を続けた。

「初めからわかっていたことだろう。あいつは師匠殺しのウタカタ。しかも抜け忍ときた。俺が言うのも何だが、まともな人間じゃあない」
「ウタカタ師匠は、あなたとは違います」
「だったら、どうしてあいつは帰ってこない」

 矢継ぎ早に放たれたシラナミの台詞に、少女は声を呑んだ。答えられないことはわかっていた。だからこそ、少女は今もこうして、この場所でウタカタの帰りを待っている。
 少女に近づき、シラナミは無表情でその顔を見つめた。事実を突きつけられ、少女の顔には動揺の色が窺える。小刻みに震える視線を自分に向けるように、シラナミは少女の手を掴んだ。触られたことに困惑し、逃げようとする少女にかまわず、シラナミはその手を強引に自分へと引き寄せた。バランスを崩し、少女の身体がシラナミの腕に収まる。

「いや……、離して……」
「俺が忘れさせてやる」
「…………え?」
「俺の術を使えば、お前はあの男を忘れられる。もう傷つくこともない。どこにも残っていない希望に、心を預けることもない」

 シラナミが右手で頬を包むと、少女はゆっくりと首を振った。双眼から雫が落ち、シラナミの手を濡らしていく。

「嫌………。忘れるなんて、師匠を、——ウタカタ様を忘れるなんて……!!」
「それしかないのだろう?お前がウタカタを許すには。ウタカタを憎まず、生きていくには」

 シラナミの言葉に、少女は瞳孔を広げ、固まったように色を失った。愕然とした表情に、シラナミはらしくもなく眉を落とした。何故、こんな気持ちになるのだろう。その理由がわからないまま、人差し指を少女の額へと向ける。
 憂いの表情を浮かべながらも、少女はもう、逃げようとはしなかった。

「全部忘れて、里に戻れ。お前だけが一族を背負い込む必要はない」

 紡がれていく文字に、シラナミはかつての自分を思い出す。
 戦乱の世の中。一族を埋まらせないために、父を殺して当主の座を手に入れた。役の行者や、父のような甘い考えでは、土蜘蛛はいつか滅びてしまう。その予感は的中し、古に名を馳せていた禁術を扱える忍は、俺だけになっていた。

 ホタル

 口の動きだけで名前を呼び、意識を失った少女の身体を抱き留める。
 願いは同じだった。禁術の力を驕り、暴走した俺と、人を傷つけることを最後まで恐れていたホタル。どうすれば一族を救えたのだろうか。今はもうどこにもない答えを、安らかに眠る少女の顔に探す。
 目を覚ませば、ホタルは全てを忘れているだろう。一族復興の夢も、自分を捨てた師匠のことも。
 これが、自分にできる償いなのだと、シラナミは脳裏に浮かぶ老爺の顔に舌打ちをした。頼まれたこととは言え、些か目覚めが悪い。かつて里を襲った俺を頼るほど、土蜘蛛は衰退してしまった。
 夢の終幕に瞼を閉じ、少女を花畑へと横たえさせる。もう2度と会うことはないだろう。俺もホタルも、土蜘蛛の里の未来を想うことはなくなった。
 当主の証の外套を脱ぎ捨て、クナイで引き裂く。細かい布きれになった土蜘蛛の栄光は、黄色い花びらと共に、空の向こうへと消えていった。