鼓動に融けた月
夜の森は、音を吸い込む。風が鳴らす葉音も、草を踏みしめる靴の音も、耳を澄ましていなければ、気づかれることなく、辺りの暗闇に落ちてしまう。新月の夜は、忍の目を持っても自由に出歩くことはできない。本当なら、こんな危険なことはせず、野宿をすればいいのだけれど、日の光が届かない湿った森では、寝袋を敷けるような地面はなかった。ぬかるんだ土に残る足跡は、視界に映ることはない。
「なかなか抜けないな、この森は」
少し先を歩くウタカタ様の声は、静粛の中によく響いた。置いて行かれないようにと声を辿り、慣れない目を凝らしてウタカタ様を見つめる。
「せめて月が出ていれば、楽だったんですけれど」
「ツイていなかったな。迷子になるなよ。この森の中を探すのは、少し気が重い」
そう言いながら、ウタカタ様がシャボンを飛ばした。私を心配してくれているのだろうか。嬉しいけれど、私だって忍だ。師匠を見失って迷子になるなんて、そんな失態をするわけがない。
頬を膨らましながら、ウタカタ様の隣に追いつく。ちらりと視線を感じて、顔を見上げながら不満を漏らした。
「迷子になんてなりません。私はウタカタ師匠の弟子ですよ?」
「その弟子が心配だから、忠告しているんだ」
「もう、少しは信用してくれたっていいじゃないですか」
相変わらずの子ども扱いに、頬はますます膨らんでいく。この旅の中で、私はたくさんの術を会得してきた。そりゃあ、ウタカタ様には敵わないだろうけれど、以前よりは強くなっているに決まっている。
素知らぬ顔をするウタカタ様が気にくわなくて、目の前に浮かぶシャボン玉を指で弾いた。それでも消えないシャボンは、ウタカタ様の強さを表している。
「おい、せっかくの護衛で遊ぶな」
「遊んでなんかいませんよ。そんなに私が心配なら、自分で掴んでいればいいじゃないですか」
シャボンから目を逸らして、ウタカタ様の手を握った。暗闇の中に、ウタカタ様の輪郭がぼんやりと浮かぶ。
「そんなことを言って、自分が掴まりたいだけだろう」
「違いますよ!師匠が離れないように、私が掴んであげているんです」
「……あほか」
呆れた声とは裏腹に、握った手が振りほどかれることはない。手を離すタイミングを失って、少し戸惑いながらも、音を立てて消えていくシャボン玉に、ウタカタ様の顔を見上げる。
「ウタカタ師匠?」
「こんなに近くにいるなら、護衛は必要ないだろう」
最後のシャボン玉が消えたと同時に、また森は静かになる。繋いだ手はそのままに、歩みを止めない爪先を見下ろした。暗闇に視覚を奪われて、右手の感覚はいつも以上に研ぎ澄まされる。
いつの間にか握り返されていた手のひらに意識を奪われながら、鼓動が早まるのを感じた。さっきまで気にならなかった静粛も、今は不都合なものでしかない。繋いだ手から鼓動が伝わらないように息を潜めながら、暗い森を見据える。
森の終わりも、夜明けもまだまだ先だ。奇妙な旅路にぎこちなさを感じながらも、師匠の手を離さないように、繋いだ手の力を、少しだけ強めた。