バスルームで待ち合わせ

 ふわふわ浮かぶ泡を両手で掬って、ふーっと息を吹きかけた。あたしの手の平に乗っていた泡は、唇が尖った方向に飛んでいって、そのままひらひらと湯船に落ちた。泡の付いた手をお湯に入れると、ちゃぽん、と可愛らしい音がする。湯船に浮かぶ泡の島は、お風呂に入りたてのときよりも、大分小さく細かくなっていた。ところどころ島が離れて、透明なお湯の中が丸見えになっている。

「お待たせ、しおりちゃん」

 もう一度泡を掬おうと両手を合わせたところで、暢気な傑作くんの声がした。お風呂の扉が開いて、浴室に溜まっていた湯気が一目散に外に逃げていく。霞んだ靄に包まれる傑作くんを見上げて、泡を飛ばすようにふーっと息を吐いた。尖った唇は、そのままへの字に歪んでいく。

「遅い、傑作くん」

 これ見よがしに不機嫌な顔をして、目と眉を近づけて傑作くんを睨んだ。傑作くんはごめんごめんなんて言いながら、いそいそとシャワーのハンドルを捻った。ノズルから出た水がタイルに落ちて、忙しく浴室の中を跳ね回る。頭から水を浴びた傑作くんは、冷たそうな顔をしながら、未だ不機嫌な顔をするあたしに向かって笑いかけた。その笑顔に、少し怒りが治まりかけたことは内緒だ。

「傑作くんが遅いから、せっかくの泡風呂が台無しじゃない。これじゃあただのお風呂と一緒よ!」
「ごめんね。思ったより本の整理が終わらなくてさ」
「せっかくもくじぃがいなくて二人きりだっていうのに、楽しみにしてたあたしの気持ちを返してよ」

 ぷいっと横を向くと、傑作くんはまいったな、というように頭の後ろに手をやった。その顔を横目で見ながら、首だけは相変わらずそっぽを向いておく。久しぶりに見る傑作くんの裸だとか、肩を落ちていく雫だとか、濡れて太股に貼り付いているタオルだとかに目を奪われそうになっていることに、絶対に気づかれてはいけない。怒っている振りをしながら、必死に胸の中で響く心臓を押さえつけた。傑作くんが遅かったせいで、あたしも大分逆上せてしまったみたいだ。

「しおりちゃん、機嫌直してよ」
「……知らないっ!」
「困ったなぁ。――でも、嬉しいな。しおりちゃんがぼくと二人きりでいられること、楽しみにしてくれてたなんて」

 じゃばん、と湯船のお湯が大きな飛沫を上げて舞い上がり、それに混じって、体を抱き寄せられる。体にくっついていた泡が、傑作くんに近づくあたしとは反対に、流れにそって遠くへ行ってしまった。いきなりのことに声を上げて、慌てて傑作くんを振り返る。背中が傑作くんの胸板に、吸い付くように貼り付いた。

「な、なにするの。いきなり」
「んー。遅れちゃった分、しおりちゃんを抱きしめてみようかな、なんて」
「何よそれ、全然償いになってないから!」
「じゃあ、どうすれば許してくれるのか教えてよ」

 絶対わざとだ、この人。
 耳元で囁かれる声に、じたばたと暴れ出したい気分になった。飛んでいきそうな思考を無理矢理捕まえて、大きく深呼吸をする。このまま傑作くんのペースに乗せられたら、あたしの威厳がなくなってしまう。元はと言えば、待ち合わせに遅れた傑作くんが悪いのだ。その傑作くんがあたしをからかって、あたしだけドキドキしているのは、なんとなく気にくわない。

「ていうか、しおりちゃん。今日はタオル巻いてないんだね」
「ほ、ほっといてよ!今日は泡風呂だから、巻かなくても平気だと思ったの!!」
「ふーん。でも、もう泡はなくなっちゃったね」
「傑作くんのせいでしょう!?」

 落ち着いている傑作くんとは反対に、あたしの声だけが浴室に反響する。どうにかこの状況から抜け出したいのに、蟻地獄にはまったように、傑作くんの腕から抜け出せない。項垂れるように首を垂らすと、お湯の中で、傑作くんの手が肌を這った。そのまま片方の膨らみを包まれて、きゅっと力を入れられる。

「や、だめっ!!」
「あれ、しおりちゃん、もしかして一緒にお風呂に入るのに、こういうことするって考えてなかった?」
「か……んがえてた、けど、物事には順序ってものがあるでしょ!」

 腰を抱かれたまま体を捻って、傑作くんに怒り顔を向ける。真っ赤になっているであろう自分の顔が恨めしい。傑作くんはきょとんと首を捻ったあと、何かに気がついたように頷いて、そっとあたしの唇にキスをした。どこまでも、傑作くんのペースから抜け出すことが出来ない。もどかしさを感じながらも、素直にその口付けを受け入れて、薄ら目を開けて湯船の中を見た。千切れた泡の狭間から、あたしの肌を触る傑作くんの手が見える。それを確認すると、支えを失ったように、体の力が抜けていった。長く湯に浸かりすぎたのかもしれない。

「しおりちゃん、大丈夫?」
「大丈夫じゃないわよ。傑作くんのばか」
「あはは、しおりちゃんってば可愛いから、つい意地悪したくなっちゃうんだよね」

 傑作くんは笑いながら、湯船に沈みそうになっているあたしの体を抱き直した。外気に触れた肌に、小さな泡の粒が付いている。それを吸い取るように傑作くんの唇が押し当てられて、思わず甘い声が出た。いくらもくじぃが家にいなくても、ご近所さんに聞こえてしまうかもしれない。そうなったら、この商店街で生きていけなくなる。必死に唇を噛み締めながら、傑作くんの首に手を回した。鼻の奥から抜けていく息が、浴室の中に響く。

「好きだよ、しおりちゃん」
「…………傑作くん」
「このままここでするのと、ベッドに行くの、しおりちゃんはどっちがいい?」

 言いながら、傑作くんの手の平はあたしの体を弄っている。もうどうにでもなれと目を閉じながら、傑作くんの背中に、思いきりしがみついた。それを肯定と受け取ったのか、傑作くんの手の動きが、一層激しくなる。
 ああもう、傑作くんには敵わないわ。
 じゃぶじゃぶと波打つ音を聞きながら、昇りつめていく快感に、熱い息を吐いた。せめてものお返しに、声を我慢する振りをして、傑作くんの背中に爪痕を残す。湯気に混じった吐息を吸い込んで唇を重ねると、しがみついていた背中がびくりとしなった。

「あたしも好きよ、傑作くん」

 入浴剤の泡とは違う、空気で出来た泡が湯船に広がる。頂点まで達した疼きを解き放って、傑作くんの胸にしな垂れかかった。気泡が弾ける音を聞きながら、もう一度唇にキスをする。笑い合った唇が、弧を描きながら、器用に重なり合った。そのまま続く笑い声に、泡がなくなったお風呂のことだとか、最後まで傑作くんの術中にはまってしまったことがどうでもよくなる。

「しおりちゃん、機嫌、直った?」
「……最後までしておいて、今さら聞かないでよ」
「だって、しおりちゃんが可愛いから」
「からかわないで」
「からかってないよ。しおりちゃんは可愛い」
「……傑作くん!」

 火照った体を冷やすために湯船から上がって、冷たい水を全身に浴びせる。そんなあたしを見ながら、傑作くんは湯船の縁に腕をついて、楽しそうに笑っていた。
 一瞬許しそうになったけれど、やっぱりこのままでいるのは気にくわないわ。
 浴室に充満した湯気を払うように、シャワーの水量を最大にして傑作くんにノズルを向ける。慌てたように顔を隠す傑作くんに近づいて、顔に付いた水滴を拭いながらキスをした。してやられたように眉を垂らす傑作くんに笑顔を残して、お風呂の扉を開ける。湯気に背中を押されるように、体が冷えた空気に包まれた。

「じゃあね、傑作くん。今夜はあたしの部屋で待ってるから」

 今度も遅れたら承知しないから。そう最後に伝えて、扉を完全に閉める。シャワーで体を冷やしたはずなのに、傑作くんに触れられていた場所が、未だに熱い疼きを持っていた。衣服を纏いながら、湯船の中でした情事を思い出して、顔を赤くする。
 今度は、あたしが傑作くんを負かすんだから!
 そう心に決意して、ドライヤーの風を顔に当てる。扉の向こうから、傑作くんの鼻唄が聞こえてきた。それに負けじと、風量を強くして、髪の水気を吹き飛ばす。
 今夜はきっと、いつも以上に長い夜になるだろう。少し楽しみに思っている自分を窘めながら、待ち合わせ場所である自分の部屋へ駆け足で上がっていった。遠くなっていく鼻唄が聞こえなくなる頃、あたしはベッドの上で、今日も傑作くんを待っている。