デビルっちの憂鬱
つまらない。ほんっとーにつまらない。不機嫌を顔に出すために頬を膨らましてみるけれど、それを気に留める人はどこにもいない。それがますます気にくわなくて、破裂してしまいそうなくらい頬に空気を詰め込んだ。でも、そのうちにこめかみの下が痛くなって、不機嫌な表情のまま空気を外に逃がす。
それもこれも、全部あいつのせいなんだわ!
唇を尖らせながら肩を怒らせて、くるりと後ろを見る。そこに寝そべるエンジェルちゃんは、「幸せ」を具現化したような顔をしながら、頬を緩ませてしおりと話していた。そのしおりも、同じく「幸せ」というようにへらへら笑いながら、頬を染めて笑っている。
バカみたい。あんな嬉しそうに笑っちゃって。
間抜けな顔をする二人の話題は、あたしの機嫌を損ねている張本人のことだった。二人の口からその名前が出る度に、イライラというか、ムカムカというか、とにかく眉間に皺が寄っていく。あいつがしおりと付き合うようになってから、しおりはあたしの意見に耳を傾けなくなった。いっつも甘いことばかり言うエンジェルちゃんの方に意見を聞きに行って、最後には聞くだけで鳥肌が立ちそうな甘ったるい恋バナをして帰って行く。
昔はあたしの方が上だったのに。
イタズラを考えるように、はんせい堂のファッションビル化計画を、しおりと立てていた頃が懐かしい。長いため息をついて、諸悪の根源である平積傑作の姿を思い浮かべた。人の良さそうな笑みをいつも浮かべているあいつは、あたしの苦手な人種だ。どの人間にも、天使と悪魔の二人の自分が存在しているのだろうけど、あいつに至っては悪魔の部分が全く見当たらない。もし居たとしても、アリンコのように小さくて、滅多に姿を現すことはないのだろう。
気にくわないわ。あんなやつにあたしの存在を奪われるなんて。
どうにかしてあいつをぎゃふんと言わせてやりたい。けれど、所詮はしおりの中にだけ存在する悪魔だ。傑作くんの目の前に現れて、チクチク槍で刺すなんて真似はできっこない。
さて、どうしようかしら……。
作戦を練りながら、情報を手に入れるために、小っ恥ずかしい恋バナを続ける二人の会話を盗み聞きする。そこで、エンジェルちゃんが発した言葉に、ピンと頭の中で電球が光った。傑作くんをぎゃふんと言わせるには、手っ取り早くて簡単な方法だ。
「ねぇ、その話、あたしも入れてくれない?」
こうして手に入れたしおりの体の主導権に、思わず鼻唄を歌ってしまう。あたしの話に興味津々で耳を傾けていたしおりは、想像よりも簡単にあたしに体を譲ってくれた。最後まであたしの計画に反対していたエンジェルちゃんは、しおりにバレないように縄でぐるぐるに縛っておいた。何だか喚いていたけれど、そんなことあたしには関係ない。傑作くんを槍で突く代わりに、とっておきの作戦を思いついたんだから。
早速しおりの部屋を出て、向かい側にある傑作くんの部屋のドアをノックした。中から間延びした傑作くんの返事が聞こえてくる。しおりはよくこんなのが好きになったなと呆れながら、ドアノブを引いて部屋の中に入った。丁度良く、畳の上に布団が敷いてある。実行時間に夜を選んだのは大成功だと、心の中でガッツポーズをした。
「しおりちゃん、こんな時間に、どうかしたの?」
「ううん。特に用って訳じゃないんだけど」
精一杯普段のしおりを演じながら、傑作くんの近くに腰を下ろした。ギターの手入れをしていた手を止めて、傑作くんの目が、不思議そうにあたしを見つめる。
ほんとうに真っさらな視線ね。黒さの欠片もない。
エンジェルちゃんのような目に辟易しながら、傑作くんの手に自分の手を重ねた。そして、部屋に来る前に何度も鏡の前で練習した、絶妙な角度の上目遣いで傑作くんを見つめる。
「今夜は、傑作くんと一緒にいたくって」
甘ったるい声を出しながら、心の中ではウヒヒヒといたずらな笑いをこぼした。触れるだけのキスしかしていない二人の関係を進展させるために、あたしが人肌脱ぐというのが今回の作戦だ。初の中の初というような傑作くんが、女の子から迫られれば、どうなるかはだいたい想像がつく。上手くいけば、“男”になった傑作くんに幻滅して、しおりはこいつから離れていくかもしれない。あたしは傑作くんよりもずっと前から、しおりのことを見てきたのだ。あの子がお話の中のようなロマンティックな恋に憧れていることは、誰よりも知っている。
「今日は、傑作くんと寝てもいい?」
手の甲を握るように指先に力を込めて、ぐいと体を近づけた。部屋を出る前に塗りたくったリップクリームが、蛍光灯に反射してぷるぷると輝く。彼女にこんな風に迫られて、理性を保てる男がいるはずがない。押し倒される準備をしながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
「うん、いいよ。布団は狭くなっちゃうけど、しおりちゃんの枕も持ってきなよ。そのほうが、しっかり寝られると思うし」
え。
思わずそう声が漏れてしまいそうなほど、場違いな笑みで言葉を返される。好き合っている男女が布団の上で体を近づけて、そんな雰囲気にならないなんて、普通有り得るのだろうか。しおりが本当に傑作くんと付き合っているのか不安になりながらも、にこにこと笑い続ける傑作くんに、第二の作戦を仕掛ける。
「枕は……その、傑作くんに、腕枕、してほしいんだけど」
上目遣いが効かないのならと、手の平を引いて甘えるように腕に抱きついた。猫のように頭を擦りつけて、至近距離で傑作くんを見上げる。今度こそ、押し倒されるに違いない。
「腕枕?良いけど、ぼくの腕、結構硬いよ?しおりちゃんが寝苦しくないといいんだけど」
ええええ!!!!
どこまで鈍感なのこの男は!それとも生粋のチェリーボーイなのかしら!!
開いた口が塞がらないまま、笑顔を崩さない傑作くんを見上げる。この男版エンジェルちゃんには、はっきりと言葉にしないと通じないのかもしれない。けれど、あたしだって一端の乙女だ。その言葉を口にして男を誘えるほど、誘惑に慣れてはいない。実を言うと、こういうことをするのは初めてなのだ。あたしはしおりの分身なのだから、当たり前と言ったら、当たり前なんだけれど。
「……もう、傑作くん!」
こうなりゃヤケクソだと、傑作くんの膝に手を付く。自分から言い出した手前、ダメでした。なんて簡単に諦めるわけにはいかない。何が何でも、傑作くんをぎゃふんと言わせたいのだ。エンジェルちゃんの部分だけのしおりを好きになったところで、長続きはしない。あたしもしおりの一部なのだ。このあたしも好きになれなければ、しおりと付き合う資格はない。
「この、鈍感男!!」
覚悟を決めて顔を近づけて、とりあえず唇を塞いでみた。話しながらキスしたせいで、歯がガチッとぶつかって不格好な音がした。でも、そんなことを気にしている余裕はなくて、重なった唇が離れないように、首に手を回して唇を押し当てる。何度も何度も重ねるうちに、その感触に夢中になっていた。唇の間から聞こえる水音が、あたしの神経を鈍らせる。終いには、何でキスをしたのかも忘れてしまって、舌を口の中に差し込んでいた。甘くとろける恋の意味が、わかった気がする。
「ちょ……ちょっと待って、しおりちゃん!」
息継ぎの間に体を引き離されて、そこでやっと我に返った。押し倒されるどころか、自分から押し倒しそうだったキスの勢いを思い出して、羞恥に顔を赤らめる。おそるおそる傑作くんの顔を見上げると、頬を真っ赤に染めて肩で息をしていた。唇が唾液で濡れていて、それがあたしが付けたものだとわかると、今まで感じたことのない疼きが、体の中心から湧き上がってきた。
「一体どうしたの?急に、あんなこと……」
「だって、あたしも、傑作くんが好きだから」
反射的に出た言葉に、自分で口を覆う。あんなに憎くてたまらなかったはずなのに、なんてことを言ってしまったんだろう。戸惑うあたしとは反対に、傑作くんは疑問符を浮かべながらあたしの顔を見つめていた。仕方がない。あたしはしおりの分身だけれど、傑作くんには普段のしおりと同じように見えているのだから。
「あたしもって、どういう意味?」
「……傑作くんは、優しいあたしが好きなんでしょ?いつも笑顔で、“良い子”って感じの。でも、あたしは違う。優しくなんてないし、自分のことしか考えてないの。自分自身に嫉妬しちゃうくらい、心が狭くて意地悪なの」
頭の中で、エンジェルちゃんが心配そうにこちらを見つめていた。あんなやつに心配されるなんて、あたしの力も落ちたものだ。だから、しおりもあたしの話を聞かなくなる。悪魔が存在しなくていいのなら、最初から生み出さないで欲しかった。悪魔だって、寂しいときは寂しいのだ。
「ぼくは、優しいしおりちゃんも好きだけど、意地っ張りなしおりちゃんも好きだよ」
落ち込んでいく気持ちを掬うように、傑作くんがあたしの頭を撫でた。はっとして顔を上げると、いつもの暢気な笑顔があたしを見つめていた。
「しおりちゃんは、明るくて、わがままなところもあるけれど、そこもしおりちゃんの良いところだと思うし。優しいところだけって言うのは、ちょっと違う気がするな。ぼくは、しおりちゃんが好きだから、良いところも悪いところも、全部含めて、しおりちゃんだと思うんだけど」
もう一度頭を撫でられて、不覚にも顔がにやけてしまう。しおりとエンジェルちゃんがどうしてこいつを好きになったのか、今わかった。そして、どうしてあたしが傑作くんを好きになったのかも。
作戦は失敗に終わったけれど、あたしの心は晴れやかだった。傑作くんの腕に抱きしめられて、このまましおりに体を返すのが惜しくなる。せめてこのまま傑作くんの腕枕で眠りたいな、なんて思いながら、しおりに体を受け渡す準備をする。
「傑作くん、寝る前にもう一度だけ、キスしてもいい?」
今度は計算しきった上目遣いじゃなくて、そのままのあたしの視線で問いかけた。頷いた傑作くんが、自分から唇を重ねてくれる。その感触を胸に刻みながら、元通り、しおりの頭の中に帰っていった。
「悪かったわね。縄なんかで縛っちゃって」
「ううん。それより、しおりが怒ってたわよ?あんなキスをするなんて聞いてないって」
「仕方ないでしょ。相手が傑作くんなんだから。それに、おかげで少しは発展できるんじゃないの」
長いキスを続けるしおりと傑作くんを見て、少しだけ眉を下げる。あたしは所詮、しおりの分身だ。だけど、今はちょっぴり、しおりのことが羨ましい。
「体、しおりに返したくなかった?」
「ううん。あの子もあたしなんだから、大して変わりはないわよ。それに、あたしは傑作くんと、あっつーいキスを交わしたんだから」
「あ、ずるい!!あたしは一度もしたことないのに!!」
「ふふ、悔しかったら、あんたも傑作くんを誘惑してみなさいよ」
誘惑している自分を想像したのか、真っ赤になるエンジェルちゃんに笑顔を残して、いつもの背中合わせの位置に戻っていった。傑作くんなら、あたしごとしおりを受け止めてくれるだろう。初めてのキスの感触を思い出しながら、槍を抱いてその場に寝転んだ。しおりが帰ってきたら、今度は三人で、甘い恋の話を咲かせてみよう。そしていつか、また傑作くんの唇を、奪ってみせるんだ。