見えない距離
両手で持った写真を眺めて、大きなため息をつく。やっとの思いで双子から取り返した写真は、走り回ったり投げられたり、時には踏んづけられたりしたせいで、よれよれに曲がってしまっていた。まさか、あんなところにあったなんて。
学生時代に読んでいた雑誌の表紙を思い出して、また小さなため息を吐く。失恋の痛みを引きずったまま、無造作に近くにあった雑誌にでも挟んだのだろうか。写真を貰ってしばらくは、舞い上がって毎日持ち歩いていたくらいなのに。いつの間に失くしてしまったんだろう。
皺が入り、ところどころ白くなってしまったあの子の顔を、黙ったまま見つめる。久しぶりに見るあの子の顔は、思い出の中と何一つ変わらなかった。十年前に流行っていた化粧や髪型は、少し古臭いとは思うけど、やっぱり可愛いし、とっくに塞がったはずの古傷が、無意識に軋んでしまったりもする。
今更未練があるわけじゃない。けれど、好きだったのは事実だ。
この写真を見なければ、きっと忘れていたままだった。それでも、一度蓋の開いた記憶は、否応なしに頭の中に溢れて、視覚や聴覚にまで広がっていく。
毎日の小さな楽しみだった、軽音楽部の練習。初めて二人きりで帰った夏の夜。写真を貰った嬉しさで、眠れなかったあの日……。
少しイタズラ気に、唇を尖らして笑うのが、あの子のくせだった。告白する勇気もないくせに、あの子のことばかり見つめていたから、さり気ない仕草だってよく覚えている。だからこそ、気づいてしまった。みんなの憧れで、いつでも笑顔を振りまいていたあの子が、誰にも見せない視線で追い続けていた先輩のことを。
写真に刻まれた皺を伸ばして、色褪せないあの子の笑顔を空に掲げる。ぼくが好きだったあの子は、ぼくがあの子を想っていたように、先輩のことをずっと見つめていた。それに気がついたのは、写真を貰って、しばらく経ってからのことだ。つまりこの写真は、先輩への恋心のカモフラージュ。ピエロの一人に選ばれたぼくは、ピエロの名に相応しく、独りで舞い上がって、独りで涙を流した。
笑顔のままぼくを見つめるあの子に、音にならない声で想いを伝えた。過去系の告白は、誰にも届かない。洪水を起こしたぼくの記憶は、切ない痛みだけを残して、身体中に浸水していった。いっそのこと、涙になって流れてしまえば楽なのに、ぼくの身体は、変わらないため息を吐くだけだった。掲げた写真を離す勇気さえ、今のぼくには残ってない。
「傑作くん、やっぱりここにいたのね」
突然後ろから聞こえた声に、慌てて写真を手の平の中にしまい込む。そんなぼくの動作に気がついたのか、しおりちゃんは呆れたように微笑んで、手摺りに前のめりに寄りかかった。
「そんなに急いで隠さなくても、無理矢理覗き込んだりしないわよ。ゴージ君達じゃあるまいし」
「そ、そうだよね。でも、ごめん。やっぱりこういうのは、ちょっと恥ずかしくて……」
写真を返してもらう代わりに、しぶしぶ双子達に話した遠い恋の物語を、しおりちゃんも聞いていたはずだ。「素敵な思い出じゃないですか」なんて、ゴージ君は言っていたけど、所詮、叶わなかった独りよがりの片思いだ。呆れられたり、哀れまれたりなんてしたら、しばらく立ち直れないかもしれない。
「恥ずかしがることないじゃない。ゴージ君の言う通り、素敵な思い出だと思うわ」
「そうは言っても……ぼくの百パーセント片思いだったわけだし」
「片思いでも、両思いでも、その時の気持ちに、嘘はないはずでしょう?だったら、恥ずかしいなんて言って、記憶の中に埋めたりしたらダメ。どんなに格好悪くたって、それが自分自身のことなら、受け止めてあげなくちゃ」
しおりちゃんの声に、逸らしていた視線をあげる。ぼくを見つめていると思っていた顔は、空を見上げて双眼に白い雲を映していた。もうすぐ夕方に変わる、淡い紫色が、しおりちゃんの目の中を流れていく。
「好きだったのね、その子のこと」
「……うん」
「恋って、叶わなければ叶わないほど、自分の中で、強く大きくなってしまうのよね。どんなに願ったって、自分が動かなきゃ、何も始まらないのに」
しおりちゃんの声が、だんだんと小さくなっていくのが不思議で、ぼくは空を見上げたままの顔を見つめ続けた。その視線に気がついているはずなのに、しおりちゃんはこちらを向かずに、大きく息を吸い込んだあと、ため息をつくように俯いて、そのまま大きな笑顔を作った。唇は笑っているのに、眉は悲しそうに下がっている。どうしたのと問いかけたかったのに、しおりちゃんの言葉が、ぼくの声を遮った。
「でも、意外だなぁ。傑作くんに、好きな女の子がいたなんて」
「そりゃあ、ぼくだって好きな女の子くらいいるよ」
「……そうね。傑作くんだって、男の子だもんね。――あたしが、知らなかっただけなのよね」
泣き笑いのような表情のまま、しおりちゃんが大きく背伸びをする。夕方の風が、しおりちゃんの頬を撫でて、儚げな表情を隠した。横髪に覆われたまま、しおりちゃんが消えてしまうような気がして、思わず小さな肩に手を伸ばす。
その時だった。冷たい風はぼくとしおりちゃんの間を通り抜けて、一瞬緩んだ指の力を見計らったかのように、あの子の写真を空に飛ばしてしまった。呆気にとられて宙を舞う写真を見上げるぼくに、しおりちゃんが慌てた声をあげる。
「大変!早く追いかけなくっちゃ!!」
駆け足で物干し台を出ようとする背中を、腕を掴んで引き留める。振り向いたしおりちゃんは、驚いたように丸い目をしていた。
「傑作くん!?」
「いいんだ、もう。追いかけなくても」
「でも、あれは傑作くんの大切な……」
「うん。そうだけれど、もういいんだ。今度こそ、風が連れていってくれたんだから」
もう二度と会うことはない、大好きだったあの子。今も幸せに笑っているのならば、もう何も望むことはない。あの小さな小さな恋の記憶は、これからもぼくの中で生き続けるのだろう。ただそれだけだ。しおりちゃんの言う通り、受け止めて、大事にしまっておいてあげなきゃいけない。それがどんなに、自分にとって恥ずかしい思い出だとしても。
「ありがとう、しおりちゃん。しおりちゃんのおかげで、あの子のこと、嫌いにならずに済んだよ」
「……そう、良かった」
掴んでいた腕を離すと、しおりちゃんはこちらを向いて、それから写真の消えた空を視線で追った。
いつかまた、あの日のように、誰かに胸を焦がす日が来るのだろう。そのときには、きちんと声に出して気持ちを伝えよう。そして、風が連れ去ったあの子のことを、笑いながら思い出せればいい。
吹っ切れたような清々しい気持ちのまま、夕陽の沈む西の空を見つめる。黙ったままのぼくらの頬を、冷たい風が、縫うように攫った。