ありふれた恋人たち

 右手で掴んだ手摺りから、錆び付いた鉄の匂いがした。塗装の剥げている古い階段は、手摺りと同じ鉄製で、歩く度にカンカンと甲高い音がする。こんなに毎回音が鳴っていたら、近所迷惑もいいところだわ。なんて思いながら、しんと静まり帰ったドアの前に立った。ここの住民は、皆あの音に慣れているのだろうか。あれだけ足音を鳴らして歩いたのに、人が出てくる気配はない。
 というか、ここまでうるさかったら、寝ている人も起きてしまいそうだけれど。
 時刻は午前11時。一般的に言えば、寝ている人は少ない時間だ。どんな寝坊助さんでも、この時間になれば、カーテンの隙間から差し込む光で、自然と目が覚めてしまうだろう。
 それなのに。
 時刻を確認するために取り出したスマートフォンと交代に、無機質な鍵を取り出す。はんせい堂のでも、自分の部屋のでもないその鍵は、目の前のドアにすんなりと入っていった。
 ガチャリ。
 足音とは比べものにならないほど小さな音が鳴って、ドアが軋みながら開く。一人暮らしなのに、チェーンも付けずにいるなんて、どれだけ不用心なんだろう。それとも、部屋の主は中にいなくて、どこかへ出掛けてしまったのだろうか。
 あたしのそんな疑問は、中に入って数秒で解決した。いたるところに服やカップラーメンの容器が散らばり、まさに「男の一人暮らし」を表したような部屋の中で、大きな布団が、上下にいびきをかいている。
 
「やっぱり。こんなことだろうと思ったのよ」
 
 大きすぎる独り言も、目の前で眠りこけている巨人には何の効果も示さない。比較的綺麗にされていた机の上にバックを置いて、返事のひとつも口にしない背中を睨みつけた。大きく息を吸い込む音が、静かな部屋に広がる。
 
「彼女との、久しぶりのデートに遅刻。しかもその理由は寝坊。こんなことが許されると思ってるの!」
 
 両手を腰に当てて大声を出してみるけれど、暖簾に腕押しで埒があかない。何日も掃除をしていないであろう部屋の真ん中で、自分の惨めさに肩を落とした。怒りの主は、当分夢の中だ。
 
「ほんっとにもう……傑作くんじゃなかったら、このまま帰るところだったんだから」
 
 文句を言って唇を尖らしながら、手当たり次第に散らばる服を洗濯機に突っ込んでいく。食べ散らかしたままになっていた容器も片付けて、ついでに閉めっぱなしになっていたカーテンも開けておいた。日はとうに天辺に昇っていた。キラキラと差し込む日差しも、彼を起こす目覚ましにはならない。
 
「あーあ。もう。本当なら今頃、映画を見終わって、一緒にお昼を食べていたはずなのに」
 
 それが今や、こんなボロアパートで、一人掃除をしているなんて。
 一通り事が終わると、部屋はまた静かになる。薄い襖の向こうで、洗濯機がゴウゴウと回る音がした。あたし以外に、このアパートに客人はこないのだろうか。それとも傑作くん以外に、誰も住んでいないのだろうか。赤く錆びた階段は、誰の気配も感じさせない。
 長閑さに大きな欠伸をして、眠ったままの傑作くんの隣に横たわる。丁度両手を広げていて、いい感じに腕枕をしてくれそうだ。後で痺れたと文句を言われても、デートをすっぽかされたことを考えれば、大したことはない。
 目を瞑りながら、傑作くんのシャツに顔を擦りつける。少し汗臭くて、けれど心地の良い匂いが、肺を満たしていった。小さな声で名前を呼ぶと、あたしを抱き寄せるかのように、広がっていた両手が肩を包んだ。
 
「しおりちゃん」
 
 くっついたままの唇の向こうで聞こえた名前に、自然と頬が緩んでいく。デートを台無しにされて、起きてすらくれないのに、満たされた気分になるのは何故だろう。あたしが望んだ王子様は、こんな人じゃなかったはずだ。
 
「目が覚めたその時には、あたしの言うこと、ぜーんぶ聞いてもらうんだからね。どんなに謝ったって、許してあげないんだから」
 
 貧乏で、鈍くさくて、お世辞にも格好いいとは言えない、あたしの彼氏。それでも、こうして隣に眠るだけで、世界一幸せな気分になれてしまう。 頬を照らす日が赤く染まる頃には、傑作くんの目も覚めるだろう。そしたら、力一杯抱きついて、一晩中一緒に居てもらおう。潰れたデートの穴埋めは、それからでも遅くないはずだ。