真夏のレクイエム

 カナカナカナと、蜩が弦を爪弾くような声で鳴いている。もう夕方だというのに、辺りは明るく、風鈴の音も鳴らないほど、風が吹いていなかった。首筋を辿る汗を冷やすために、持っていた団扇で襟元に風を送る。空を見上げると、傾き始めた太陽が、ギラリと顔を照らした。その眩しさに、思わず目を閉じる。
 目の中に閉じ込めた光は、そのまま瞼の裏で数回瞬いたあと、流れ星のように、目の外へと消えていった。それを合図にするように、きつく閉じていた瞼を、ゆっくりと開いていく。
 
「しおりさん、こんなところに居たんですね」
 
 ザッと砂利を踏みつける音に振り向くと、鞄を肩から提げたゴージ君が、あたしを見下ろすように立っていた。ここまで歩いてきたのだろうか。額には汗が滲んでいて、しっかりと整えられているはずの前髪も、少し乱れている。
 
「お店の方から声をかけたんだけど、誰も返事をしないから」
「ごめんなさい。あんまり暑いから、今日はいつもより早めに閉店したの。もくじぃは組合のお手伝いって、お祭りに行ったわ。リリックは……どこかでお昼寝でもしてるんじゃないかしら」
 
 チリン。と風鈴が鳴って、ゴージ君の乱れた髪を靡かせる。その動きを見ていると、ゴージ君はゆっくりと目を細めて、鞄を肩に掛け直した。真っ黒な目玉が、あたしの姿をじっと捕らえる。
 
「しおりさんは、お祭りに行かないんですか?」
「ええ。今年はいいわ。せっかくだけど」
「浴衣、着ているのに?」
 
 ゴージ君はそう言うと、鞄を地面に下ろしながら、あたしの隣に腰かけた。崩れた鞄から、大学で使っている参考書が見えて、少し胸がチクリと痛む。そんなに久しぶりでもないのに、なんだか雰囲気が変わったなと思ったのは、気のせいではなかった。環境が変われば、人も変わる。ゴージ君が昔よりも大人っぽくなっているからって、何もおかしいことはない。
 
「そういえば、ダツジ君は?君たちが一緒にいないなんて珍しい」
 
 わざとゴージ君の質問に答えないで、隠せるわけもないのに、団扇で浴衣の柄を覆った。桜の模様が紺色の団扇に溶け込んで、風のなくなった首筋に一粒汗を垂らす。ジリジリと照りつける夕陽は、夕陽と呼ぶのを躊躇わせるくらいに鋭かった。唾を飲み込もうと上下した喉が、嚥下の動きに耐えられず、何かに掴まれたように、鈍く痛む。
 
「弟は、サークルの友達とお祭りに行きました」
「ゴージ君は?サークル、ダツジ君と一緒だったはずでしょう?」
「ぼくは、……しおりさんに、会いたかったから」
 
 そよ風が靡いて、風鈴の音がうるさくなる。鳴り止まない風鈴に合わせて、ゴージ君の鞄の中から、カサカサとレジ袋が動く音がした。あたしの視線に気がついたのか、ゴージ君が鞄を持ち上げて、徐に右手を突っ込んだ。中から出てきたスーパーの袋に、すうっと短く息を吸い込む。
 
「少ししかないけれど、花火、やりません?打ち上げ花火には敵いませんが、手持ち花火も、案外イケると思うんです」
 
 そう言って花火の袋を開けたゴージ君は、ポケットからライターを取り出して、火薬に火を付けた。ライターを持ち歩いているなんて、ゴージ君は、いつから煙草を吸うようになったのだろう。それとも、花火のために、わざわざ持ってきたのだろうか。
 そんな疑問を口にしないまま、ゴージ君を真似するように、細い花火の棒を、指先で摘まんだ。一気に燃え上がった炎は、そのまま火花へと形を変えて、色とりどりの光を撒き散らせる。明るいうちにする花火は、初めての経験だった。相変わらず勢いの衰えない太陽と、それに逆らうように燃え上がる花火の光が、夏の間でぶつかっているように見えて、目が離せなくなる。
 
「しおりさん。浴衣、似合ってますね」
「本当?嬉しいわ、ありがとう」
「どうして、今年はお祭りに行かないんですか?」
「……気分じゃないのよ。あっついし、人混みだって疲れるし」
「嘘。誤魔化さないでください。本当は、行きたくないんじゃなくて、行けないんでしょう?一緒に行くはずだった人が、ここにいないから」
 
 突然強くなった語気に、花火から目を離してゴージ君を見つめる。あたしを見るゴージ君の目が、真夏の黒雲のように、キラリと光っていた。話題から逃げようと新しい花火に伸ばした右手を掴まれて、あたしは身動きが取れなくなる。風に吹かれて引いていたはずの汗が、額を伝ってこめかみを冷やした。
 
「もう、半年ですか。傑作さんが、はんせい堂を辞めてから」
「…………」
「あれから一度も、連絡はないんですか?」
「……一回だけ、手紙が来たわ。でも、それだけ。たぶん、会うと恋しくなるから、わざと避けてるんだと思うの。せっかく叶った夢だもの。つまらない独占欲だけで、傑作くんを邪魔するわけにはいかないわ」
 
 チリチリチリと、風鈴はうるさいのに、蜩はいつの間にか鳴き止んでいる。終わらない暑さに辟易したのか、それともあたしたちの間に流れる空気を察したのか。掴まれた手首は、どちらのせいなのか。こんなに暑いのに、小刻みに震えている。
 
「それじゃあ、言わないんですか?傑作さんに、本当の気持ち」
「――本当の気持ちって?あたしは傑作くんに、歌手として大成功して欲しいだけよ」
「誤魔化さないでって、言っているじゃないですか。ぼくが何年……何年、しおりさんの事を見てきたと思っているんですか。しおりさんが傑作さんの事を想っていることぐらい、ぼくにだってわかります」
 
 地面に落ちた花火から、焦げ臭い、煙の匂いがした。右手を掴まれて引き寄せられた腕に、身体がバランスを崩して、膝が地面についてしまう。お気に入りの浴衣が、土に触れて茶色く汚れた。その光景に悲鳴を上げたかったのに、すぐ傍で聞こえるゴージ君の息づかいに、何も言えなくなってしまう。
 
「誤魔化さないでください。ぼくにだけは、嘘をつかないでください」
「…………」
「もう、いいんです。届かなくても。とっくに諦めはついている。でも、好きなんです。しおりさんの事が。だから、出来ることなら、しおりさんにはいつも、笑っていてほしい。利用されても、寂しさを埋めるための道具として扱われても構わない。ぼくは、しおりさんの事が、好きなんです」
 
 自分から引き寄せたくせに、掴んだ右手以外には触れようとしない不器用な優しさが、とてつもなく愛おしかった。このままこの腕の中に飛び込めたら、この人の事を愛せたら、どれだけ楽になれるのだろう。
 けれど、それじゃ駄目なのだ。あたしは傑作くんが好きで、きっと、これから先も、あたしには傑作くんしか駄目なのだ。それは、ゴージ君も――もしかしたらゴージ君の方が――よく知っている。だから、彼はあたしを抱きしめない。不格好に右手を掴んだまま、涙を堪えるように、燃えかすとなった花火の残骸を睨みつけている。
 
「ありがとう。ゴージ君。でも、ごめんなさい。そんな卑怯なこと、あたしには出来ないわ」
 
 誰かを思いきり愛する喜びと苦しみを、あたしは痛いほど知っている。だからこそ、ゴージ君を利用するわけにはいかない。中途半端な優しさほど、相手を苦しめる術はない。いっそのこと、冷たく突き放してしまった方が、相手にとっては、幸せなのだ。
 
「ゴージ君は、素敵な人よ。あたしなんかには勿体ないくらい。だから、ね。あたしの事なんか忘れて、幸せになってほしいの。そりゃあ、あたしはカワイイし優しいし、魅力的な女よ?好きになっちゃう気持ちもわかるわ。でも、ごめんなさい。ゴージ君の想いには、……答えられないの」
 
 冗談交じりに返した言葉に、ゴージ君の手の力が緩む。その隙に、掴み損ねた花火を取り出して、勢いよく立ち上がった。火薬の先を太陽に向けるけれど、花火の先に、光は灯らない。汗が背中を伝って、蜩がいっそう激しく鳴いた。どこかで恋が終わろうとしている。真夏のレクイエムが、狭い庭に響き渡る。
 
「痛いですね、お互い」
「…………」
「でも、きっと後悔はしない。こんなに全力で好きになれる人、もう、現れないだろうから」
 
 遠ざかっていく足音に、汗とは違う、冷たい雫が頬を伝うのがわかった。空に掲げた花火は、湿気を吸い込んで、だらしなく下を向いている。ここには太陽があって、花火があって、浴衣があって、蜩もいるのに、夏はどこにもなかった。息を止めるほど切ない胸の痛みだけが、あたしの中の答えだった。
 
「ばいばい。――さよなら、ばいばい」
 
 指先から離れた花火が、風鈴の音に靡いて、土の上を滑っていった。遠くから、お囃子の音が聞こえてくる。もくじぃが笛を吹いているのだろうか。リリックは、どこへ行ったんだろう。
 立ち竦んでいる浴衣の袖が、夏に取り残されたように前後に揺れていた。もう、あの夏には戻れない。近づいてくるお囃子に耳を澄ましながら、あたしはそっと、瞼を閉じた。