フローライトにキスして
暗闇の中で、懐中電灯の明かりが揺れる。歩幅に合わせて上下する光に、灰色のコンクリートの道が映し出された。辺りには、カエルの鳴き声と虫の声。大通りから離れたこの道には、車も人も、ほとんど通らない。だから、日はとっくに暮れて、明日が近づくこの時間帯に出歩いている人は、あたしと傑作くんしかいなかった。二人きりで歩く道に、懐中電灯の明かりがひとつ。意識しなくても、明かりを求めて、自然と距離がくっついてしまう。「しおりちゃん、まだぼくの頭に、蛍がいるの?」
「ええ。よっぽど居心地がいいのね。さっきから少しも動いていないわ」
明かりの先に映る道から視線を逸らして、暗闇に光る小さな明かりを見上げる。頼りなさ気に点滅する蛍光色の下に、不安そうな傑作くんの顔を想像して、バレないようにそっと笑いをこぼした。蛍を傷つけないように気をつけているのか、歩く速度が、さっきよりも遅くなる。
「困ったなぁ。川辺に着いたら、素直に帰ってくれるといいんだけど」
このまま綺麗な水のない、はんせい堂に置いておくのは可哀相と、わざわざ蛍を川に戻しに行くのを提案したのは傑作くんだ。ゴージくんとダツジくんの家の庭園に連れていくことも考えたけれど、蛍にも家族や友達がいるだろうと、傑作くんは元の川に返すことを譲らなかった。そのせいで、真っ暗な道を再び歩くことになっているのだけど、また蛍が見られるのなら、こんな時間もいいかなと思ってしまう。
「きっと、傑作くんが優しいから、蛍も離れたくないのね。蛍にも、自分を傷つける人間と、傷つけない人間がわかるのよ」
「好いてくれるのはありがたいけど、このままじゃあぼく、眠るどころか、家にも帰れなくなっちゃうよ」
「ふふ、川に着いたら、あたしが取ってあげるわ。あんまり遅くなると、もくじぃも心配するだろうし」
懐中電灯が照らした先に、小さな明かりがふわふわと空を舞う。人気が少なくなったせいなのか、みんなで来たときよりも、蛍の数は多くなっていた。幻想的な光景に、蛍を戻すことも忘れて、しばらく二人で黙りこくる。暗闇を舞う蛍の動きに合わせて、虫たちが一斉に鳴き声を上げていて、なんだか遊園地のパレードを見ているようだった。そんなあたしの思考を読み取ったのか、傑作くんが、静かにその場に腰を下ろす。
「綺麗だね。さっきよりもたくさん飛んでる」
「うん。こんなにたくさんの蛍を見たの、あたし、初めて」
「ぼくも。子供の頃は、よくおばあちゃんと一緒に、蛍を探しに近所の田んぼに行ったなぁ。小さな明かりが、とっても優しくて、いつまで見てても飽きなかったっけ」
傑作くんはそう言うと、懐中電灯をあたしの手から取って、スイッチを切った。いきなり訪れた闇に、思わず傑作くんの肩を掴む。
「しおりちゃんは知ってる?蛍の呼び方」
「蛍の呼び方?」
「そう。蛍は結婚相手を見つけるために光ってるんだって。だから、懐中電灯でその光り方を真似すれば、蛍の方から、こっちに寄ってくるんだ」
傑作くんは話ながら、数秒に分けて、懐中電灯の明かりを付けたり消したりする。すると、その光に吸い寄せられるかのように、無数の蛍が、傑作くんの元へ寄ってきた。明かりの先に手を伸ばすと、あたしの手にもとまってくれて、指輪を付けたときのように、薬指が明るく光る。
「わあ……!!蛍がこんなにたくさん!すごい、すごい!傑作くん!!」
「昔、おばあちゃんに教えてもらったんだ。今のは雄の光り方だから、近づいてきたのは、全部雌だろうね」
「見てみて。この蛍、まるで指輪に付いてる宝石みたい」
「ホントだ。……あ、」
指に付いた蛍を見せるように傑作くんに近づくと、傑作くんの頭に付いていた蛍が、ふいに空に飛び立った。その蛍を追いかけるように、指にとまっていた蛍も、あたしから離れて行ってしまう。
「今の蛍たち、もしかしたら恋人同士だったのかも」
「え?」
「だって、あんなにぼくの頭から離れなかったのに、しおりちゃんにとまっていた蛍が近づいたら、すぐに飛んで行っちゃった」
傑作くんの笑い声が、暗闇をくぐって、あたしの真横でぽたりと落ちる。掴んでいた肩から、今更傑作くんの熱が伝わってくる感触がして、頬が赤くなった。しゃがんだ傑作くんとは、今、目線が同じくらいのはずだ。暗闇に託けて近づいたら、唇が触れてしまうかもしれない。
「さ、帰ろうか。しおりちゃん。」
「え?あ、そ、そうね!蛍も無事、仲間の元へ帰ったことだし」
何事もなかったかのように立ち上がる傑作くんに、やましいことを考えていた自分が恥ずかしくなって、両手で頬を押さえた。傑作くんは、そんなあたしを気にもせず、再び懐中電灯を付けて歩き出してしまう。その背中からはぐれないように慌てて追いかけて、叶わない想いに、小さくため息をついた。
「でも、もったいなかったなぁ。しおりちゃんの指輪」
「指輪?」
「うん。さっきの蛍の指輪、とっても似合ってた。本物の結婚指輪も、あんな感じなのかな~」
その言葉には、深い意味があるのか、ないのか。さらりと乙女心を揺さぶる傑作くんに唇を尖らせて、持っていた懐中電灯を片手で奪う。そのまま全速力で走り出して、遠いところから、傑作くんを真正面に照らし出した。大きく息を吸い込むと、肺の中が、冷たい空気に満たされる。
「そんなに似合ってたなら、また見にきましょ。蛍の結婚指輪。そのうち、あたしの指だけじゃなくて、傑作くんの指にも、とまってくれるかも」
夜空に託した想いが伝わるのが怖くて、傑作くんから顔を逸らしながら、照れ隠しに蛍の歌を呟く。唇を跨いだ自分の声が、いつもよりも震えている気がした。
ほ ほ ほたるこい あっちの水はにがいぞ
ほ ほ ほたるこい こっちの水はあまいぞ
近づいてくる傑作くんの足音に、頬が熱を持っていく。遠くに見える蛍の光に願いをかけて、懐中電灯に手を添えた傑作くんの顔を、黙って見つめ返した。