三つのマッチの使い方
ガシャン!と、ガラスが割れるような音がしたのが一瞬。辺りは真っ暗になって、目の前には何も映らなくなってしまった。衝撃から身を守るようにして、両手で耳を塞いだのが災いして、足は踏み台から離れ、床へと転げ落ちてしまう。周りに散らばったであろう本たちに押しつぶされながら、苛立ちを込めた大きなため息を吐いた。窓の外では、変わらず稲光が光っている。「もー!!どうして今日に限って、停電なんかするのよ!!」
普段は滅多に足を踏み入れない、古書部に併設されている書庫。今日はもくじぃもいなくて、傑作くんも配達に行っていたから、仕方なく自分で本を探しに入ったら、この有様だ。元から頼りない蛍光灯の明かりしかないこの書庫には、懐中電灯なんて便利な物は置いていない。どうにか入り口に戻って明かりを手に入れようとも、この散らかった本の中、そこまで歩いていく方が困難だ。
「だからって、いつまでもここにいるのは……」
本を取りに行くだけのつもりだったから、携帯も時計も、何も持ってこなかった。天井の近くにある、小さな窓から差し込む光だけが、あたしの目印になっている。けれど、その光も稲妻が空を走る瞬間だけのことだ。雷が落ちて、轟音が鳴り渡れば、また元の暗闇に戻ってしまう。
「とりあえず、少しでも入り口に近づかなくっちゃ。本に埋もれたままじゃ、どうにもならないし……」
不安な気持ちを紛らわせるために、わざと大きな声で独り言を言いながら、身体に被さっていた本を手探りでどかす。その時だった。耳を劈くような甲高い音が壁を震わせ、書庫の中を痺れさせる。停電を引き起こした雷鳴よりも大きなその音に、両耳を覆って、その場に蹲った。ピカッと、続くように書庫が明るくなる。
「きゃああああ!!!!」
雷を怖がるほど、か弱い性格ではなかった。けれど、今日の雷は桁違いだ。もしかしたら、大雨に混じって、雷注意報が出ていたのかもしれない。仕事が忙しくて、情報をあまり見ていなかった。こんな雷が来ると知っていれば、書庫になんか来なかったのに。
「きゃあっ!!」
バリバリと壁が崩れそうな鳴動に、恐怖で身体が固くなる。縋るように本棚に手を伸ばして、恐怖心を抑えるために、ぎゅっと目を瞑った。瞼の向こうで、また室内が明るくなる。
「きゃあああ!!!」
「しおりちゃん!?大丈夫??」
再び落ちた雷に悲鳴を上げると、真っ暗だった書庫に、小さな明かりが灯った。名前を呼んだ声に顔を上げると、懐中電灯を握った傑作くんが、慌てた様子でこちらに近づいてくる。本を踏まないように大股で歩きながら、蹲っているあたしの手を取って、引っ張るように立ち上がらせた。暗闇の中に、ぼんやりとした傑作くんの顔が浮かび上がる。
「しおりちゃん、大丈夫だった?配達から帰ってきたら、急に停電して……そしたら、書庫からしおりちゃんの悲鳴が聞こえてきたら、慌てて来たんだよ」
「傑作くん……」
独りじゃなくなった安堵からか、身体の力が抜けて、上半身が傑作くんにもたれかかった。そんなあたしの様子を察したのか、傑作くんはあたしを支えながら、「とりあえずここを出よう」と言って、明かりを照らしながら、あたしを救出してくれた。途中、また稲光が部屋を照らしたけれど、傑作くんに抱きつくだけで、悲鳴は漏れなかった。居間に辿り着く頃には、あたしはほとんど、傑作くんに抱きかかえられる体勢になっていた。
「しおりちゃん、ここまでくれば大丈夫だよ」
「あ、ありがとう。傑作くん」
座布団に座って、見慣れた風景に包まれると、あたしはあんなに怖がっていたのが恥ずかしくなるくらい、落ち着きを取り戻していた。傑作くんは、懐中電灯をコタツの上に置いて、あたしの右手側に座った。さすが男性と言ったところか、この雷雨に、動揺している様子は微塵もない。
「……傑作くんは、怖くないの?」
「え?ああ、雷は、そんなに。さすがに外に出てたら怖いけれど、家の中に居れば心配ないよ。でも、停電はしばらく直らないかもしれないね。さっきの雷、電柱に落ちたみたいだから……」
「ええ!?そんなぁ!」
大声を出したところで、また盛大な雷が落ちる。その音に耳を塞いで、丸まるように膝に顔をくっつけた。この様子じゃあ、さっきまでしていた仕事のデータも飛んでしまっているだろう。何もかもがツイていない。今日やった作業が、全部水の泡だ。
「しおりちゃん、大丈夫?」
「大丈夫よ。音にはびっくりするけど、だいぶ落ち着いてきたわ」
「それは良かった。――あ、」
微笑みを返した傑作くんが、何かに気づいたように声を上げて、コタツに手を伸ばす。何事かと顔を上げると、明るく照らされていた傑作くんの顔が、チカチカと不明瞭に瞬いていた。まずい、と思ったときにはもう遅く、唯一の明かりだった懐中電灯は、無残にもエネルギーを失い、辺りを暗闇に戻してしまった。
「もしかして、電池切れ?」
「もしかしなくても電池切れよ!もうっ!!どうしてこんなにツイてないのよ!停電はするし、仕事はパー!!おまけに懐中電灯も使えないなんて!!」
「まあまあしおりちゃん。落ち着いて。電池の場所はわからないけど、確か、ここには代わりがあったはずだから……」
傑作くんはそう言いながら、手探りで居間の中を歩き回った。耳を塞ぎながら、稲光に照らされる傑作くんを目で追いかける。傑作くんは、仏壇の前に立つと、「あったあった」と言いながら、小さな箱を取り出した。そのままあたしの隣に座って、箱の中身を取り出す。
「マッチ箱?」
「そう。頼りないかもしれないけど、真っ暗よりはマシだろ?――って、こっちも三本しか残ってないや。参ったな」
傑作くんは眉を垂らしながらも、中の一本を擦って、暗闇に明かりを灯した。弱々しい炎の灯火が、懐中電灯の光よりも赤く、傑作くんを照らし出す。
「マッチの火なんて見るの、久しぶりかも」
「ぼくも。そういえば、しおりちゃんは知ってる?三つのマッチの使い方」
「三つのマッチの使い方?なあに?それ」
あたしが首を傾げると、傑作くんはにっこり笑って、マッチをあたしの前に持ってきた。ぼんやりとした炎が、瞳に吸い込まれるように目の前で揺れる。細いマッチの火が、傑作くんの吐息に合わせて、やわらかく揺れた。オレンジ色の炎が、マッチの棒を包んでいく。
「はじめは、君の顔を、一度きり見るため」
傑作くんが言い終わると同時に、一本目のマッチの火が終わる。続いて点けられた明かりは、さっきよりも上に掲げられた。その光を追う途中で、傑作くんと目が合う。
「次のは、君の目を見るため」
傑作くんの黒目の中で、マッチの火が、ゆるやかに揺れている。目の前で揺れる本物の火と、傑作くんの目の中で揺れる火に見とれながら、誘われるように傑作くんの手に自分の手を重ねた。熱い炎に吸いこまれて、瞳がおかしくなってしまいそうだ。傑作くんも、マッチを持っていない方の手で、あたしの肩を抱き寄せた。小さな火に、身体が近づく。
「最後のは、君の唇を見るため」
最後の一本の向こう側で、傑作くんの唇が、赤みを帯びながら動く。その艶めきに手を伸ばそうとすると、明かりが消えてしまって、部屋の中が、再び暗闇に包まれた。目の奥にチラつく炎の残像を頼りにしながら、傑作くんに手を伸ばす。その手が傑作くんの唇に触れると、引き寄せられて、身体が慣れ親しんだ温もりに包まれた。燃えかすの焦げた匂いが、部屋に充満する。
「残りの暗闇は、今の全てを思い出すため。君を抱きしめながら。――なんてね。これだけ近づいていれば、もう怖くないだろう?」
真っ暗で何も見えないはずなのに、見上げた視線の先に、傑作くんの笑顔が映る気がした。いつの間にか、あれだけ恐れていた雷が、怖くなくなっている。守られている安心感を覚えながら、傑作くんの言うように、今の全てを思い出してみた。今のあたしには、雷やそれが引き起こした不運とは関係のない、穏やかさだけが満ちている。さっきまでの不安が嘘のように、心が落ち着いていた。仕事も雷のことも、傑作くん意外の全てのことを、忘れてしまいそうになる。
「あ、しおりちゃん!電気が回復したみたいだよ!ほら、隣の家、明かりが点いてる」
傑作くんが、窓の外を指さしながら、ブレーカーを直しに立ち上がろうとした。その動きを制して、傑作くんを抱きしめる。あれだけ恋しかった明るさが、今は少し邪魔だった。膝の上に乗って思いきり身体を押しつけると、傑作くんが不思議そうに首を曲げた。
「しおりちゃん?」
「もうちょっと、このまま。雷が遠ざかるまで、こうしていさせて」
どうせ明かりが点いたら、書庫の片付けをして、データを作り直して、傑作くんと抱き合うどころじゃなくなってしまうんだろう。だったら、雷の音が聞こえなくなるまで、傑作くんに寄り添っていたい。また、いつ停電するかわからないんだ。なんて、心の中で言い訳を並べながら、腕の力を強める。
傑作くんは黙ったまま、座り直してあたしの背中に腕を回してくれた。窓の外で、稲光が暗いままの室内を、明るく照らす。目を閉じると、瞼の裏に、まだ、あのマッチの炎が灯っていた。その明かりが照らす傑作くんとの今を思い出しながら、小さくなっていく雷鳴を、温かい腕の中で聞いた。