エンジェルちゃんの誘惑
ああ、もう。こんなことをするんじゃなかった。こんなに後悔したことって、今までになかったかもしれない。そのくらい、今の状況から、逃げだしたくて仕方がない。見慣れた扉の前で、何度目かわからない深呼吸をしながら、肩を落とす。扉と壁の隙間から差す光が、暗い廊下に、一筋の線を作っていた。それを何度も横目で見ながら、握り拳を扉の前に翳した。
好きな人に会うことが、こんなに緊張することだなんて、思ってもみなかった。いつも、しおりは傑作くんと楽しそうに話しているし、デビルっちなんて、傑作くんに抱きついて、キスまでしてしまったんだ。
だから、あたしも、キスまでとはいかなくても、傑作くんと、直接話してみたかった。あたしはしおりの分身だから、傑作くんとは、恋人同士ってことになるんだけれど、実は、一度も話したことがない。それを寂しいとか、いつも傑作くんの傍にいられるしおりが妬ましいとか、そんなことを思ったことはない。でも、一回でいいから、傑作くんに触れてみたかった。そんなあたしの気持ちを察したのか、いつもはあたしをいじめてくるデビルっちが、「この間はあたしが行ったんだから、今度はエンジェルちゃんに行かせてみれば?」なんて、しおりに提案してくれた。傑作くんを誘惑するなんて、あたしには絶対出来っこない。けれど、これは唯一無二のチャンスだ。だから、あたしはこうして、しおりの体を借りて、傑作くんの部屋の前に立っている。
翳した拳に力を入れて、思いきり扉を叩こうとした。でも、寸前のところで勇気が足らなくて、へなへなと暗い廊下へと落ちてしまう。
どうしよう。このままじゃ、何も出来ないまま、体をしおりに返すことになっちゃう。
不安と焦りは止まらないのに、どうしても、扉を叩くことが出来ない。自身の情けなさに泣きそうになっている時に、突然、目の前の扉が開いた。同時に、ゴンッと鈍い衝撃が額に走る。
「いだっ!!」
「あ、しおりちゃん!?ごめん!外に誰かいる気配がしたから、開けてみたんだけど、まさかこんなに近くにいるとは思わなかったから」
扉から顔を覗かせた傑作くんが、慌てたような表情で、あたしを覗き込む。その距離と、ずっと会いたかった彼の登場に、あたしの心臓は、一気にクライマックスを迎えてしまった。額を両手で押さえて、赤くなる顔を隠しながら、覗き見るように、傑作くんを見上げる。
「ごめんね。痛かっただろ?」
「う、ううん。大丈夫……」
額の傷を確かめるように触れた指先に、熱が頭に回って、倒れそうになってしまう。この調子じゃあ、誘惑なんて夢のまた夢だ。まともに顔を見ることすら、憚られてしまう。
「ところで、しおりちゃん。ぼくの部屋の前で、何してたの?」
「え……」
まずい、と額に当てていた手で口を押さえる。あたしは今、しおりの体を借りているんだ。傑作くんとは恋人同士で、大人のキスまで済ませているのに、今さら部屋に入るのを躊躇していたなんて、怪しまれてしまう。
どうにか取り繕おうと笑顔を浮かべると、傑作くんは不思議そうに首を傾げながらも、「廊下は寒いから、中へ入りなよ」なんて、あたしを部屋に招き入れてくれた。廊下とは違う、明るい部屋で見る傑作くんにドキドキしながら、布団の敷かれていない、狭い畳の上に正座をした。
「しおりちゃん、畳の上に座ったんじゃ、足、痛くない?遠慮しないで、こっちに座っていいのに」
言いながら、布団の上を叩く傑作くんに、頬を膨らましそうになる。これじゃあ、どちらが誘惑しているのか、わからない。でも、せっかくの傑作くんの善意を無駄には出来ないから、両手を床に付いて、いそいそと布団の上に座り直した。間近で見る傑作くんの姿に、見とれてしまう。
あたしが近くに座ったのを確認した傑作くんは、辺りに散らばっていた本やマンガを片付けて、あたしのすぐ隣に座った。肩が触れ合う距離に息を潜めながら、何度も夢見た時間に、心を躍らせる。いつも、しおりの頭の中から見つめていた姿が、今、目の前にある。それだけで、天にも昇る気持ちだった。少しでも触れてしまえば、その瞬間、あたしの呼吸は止まってしまう。
「ねぇ、しおりちゃん。もしかして、また、ぼくと一緒に寝たかったの?」
とろけていく頬を現実に戻すように、傑作くんがあたしの顔を覗き込んだ。その問いかけに目を見開くと、傑作くんは少し残念そうに眉を垂らしながら、「違ったか」と、口の中で呟く。
「ど、どうして、そんなこと……」
「いや……。前にもこうして、夜にぼくの部屋を訪ねてきたことがあっただろ?その時、しおりちゃんに一緒に寝たいって言われたから、もしかしたら今日も同じ内容かなって……。でも、勘違いだったなら、ちょっと恥ずかしいな。ひとりで期待してるみたいで」
はにかむような表情に、踊っていた心臓が激しく高鳴り出す。隣に座っているだけでも、こんなに緊張しているのに、同じ布団で寝てしまったら、あたしは一体どうなってしまうんだろう。
全身に心臓が散らばったように、至る所で鼓動が脈打つ音が聞こえる。それを静めることに集中しながら、膝を抱えて、顔を膝小僧の間にうずめた。嬉しさと恥ずかしさで、心が張り裂けてしまいそうだ。
「しおりちゃん?急に俯いて、どうしたの?具合でも悪いの?」
頭のすぐ横で聞こえる声に聴き惚れて、ゆっくりと顔を上げる。横髪の向こうから、傑作くんが、あたしを見つめる様子が窺えた。息がかかりそうな距離に、心臓が耳元で膨らんでいく。
「さっきから、ほとんど喋ってないし……具合が悪いなら、早く寝た方が良いよ」
傑作くんの手が、あたしの顔色を確認しようと、頬を包むように触れた。瞬間、耳元の心臓が弾け飛んで、あたしの思考をオーバーヒートさせた。身体中の熱が顔に集まって、瞳孔が大きく広がる。
「いやっ!!」
パシン!と、大きな音がした時には遅かった。傑作くんは、あたしに弾かれた右手を押さえながら、驚いた表情で、こちらを見つめていた。
「しおりちゃん……?」
驚いた表情が、だんだんと傷ついていく様子に、しまった、と顔から血の気が引いていく。
いくら緊張していたとはいえ、自分を心配してくれた相手の手を叩くなんて、あたしはなんてことをしてしまったんだろう。こんなことで、傑作くんに嫌われてしまったら、しおりやデビルっちに顔向けができない。その前に、そんなことになってしまったら、あたしはもう、生きていけない。あたしは、傑作くんが、大好きなんだ。大好きだから、近くにいるのも、話しかけるのも、触られるのも、傑作くんがくれる全ての動作に、息が詰まって仕方なかった。
「ご、ごめんね。急に触られたら、誰だってビックリするよね。ぼくったら、つい魔が差しちゃって……」
苦笑いを浮かべ、自分に非があるように振る舞う傑作くんに、余計に罪悪感が溢れてきた。早く謝ればいいのに、弱虫なあたしは、声の出ない唇を開けることしか出来なくて、ますます傑作くんを傷つけてしまう。
「しおりちゃん?」
ああ、もう。こんなことをするんじゃなかった。あたしは所詮、しおりの分身なのだ。それを身の程もわきまえず、傑作くんの近くにいたいなんて、贅沢なことを願ってしまったから、傑作くんを傷つけることになってしまった。
あたしにはしおりのような明るさも、デビルっちのような気の強さもない。いつも泣いてばかりいて、しおりの話す傑作くんの優しさに思いを寄せながら、黙って、しおりを見つめるその姿を見ているだけで、充分だった。ただの憧れで済ませておけば、傑作くんに嫌われることもなかった。“良い子”と言われる振る舞いしか出来ない、平凡な天使に、傑作くんは眩しすぎる。
「ごめっ……なさい。あたし、緊張。しちゃって……。傑作くんと、ずっと、ずっと、話したくて。会いたくて、たまらなかった。でも、いざ近くに来たら、やっぱり恥ずかしくて……。ごめんなさい。傑作くんに触られるの、嫌じゃない。もっと、たくさん、触ってほしい。あたし、傑作くんのことが好きなの。泣き虫で、弱虫で、遠くから見つめることしか出来ないけど、傑作くんのことが大好きで仕方ないの」
涙が嗚咽と一緒に溢れてきて、敷いたばかりの布団まで濡らしてしまう。これ以上傑作くんに迷惑を掛けたくないのに、どこに溜まっていたのか、涙はいつまで経っても止まってくれなかった。
このまましおりの頭の中に逃げだそうかと唇を噛むと、突然、体が暖かい温もりに包まれる。その暖かさの理由に気づいた時には、あたしの顔は、傑作くんの胸に押しつけられていた。頬を流れていた涙が、口の端に溜まって、しょっぱい味を舌に流し込む。ズズッと鼻水を吸うと、何かを堪えるように、傑作くんが、大きく息を吐き出した。
「もう、しおりちゃん。反則だよ」
「え?」
「この間も、夜に部屋に来たと思ったら、いきなりキスして来るし、今日だって、泣きながら、あんな可愛いこと言われたら……。ぼくが男だってこと、思い出した方がいいよ。いつ、一緒に寝るだけじゃ物足りなくなるのか、わからないんだから」
傑作くんが体を離して、パジャマの袖で、ごしごしとあたしの顔を拭いた。そして、泣きすぎてしゃっくりの止まらなくなっているあたしを笑って、優しく頭を撫でてくれた。差し出されたティッシュで、大きく鼻をかむ。
「あたしって……本当、色気がないわね」
「そんなことないよ。しおりちゃんは、充分魅力的だよ」
穏やかな笑顔を向けてくる傑作くんに、二人の距離が近いことを、改めて実感する。けれど、泣き疲れたせいか、さっきよりも息が詰まることはなかった。心臓は、相変わらずドキドキしている。それでも、傑作くんの傍にいることが、恥ずかしくはなかった。疲労を癒やすために、涙の跡がついた胸元に、もう一度顔をうずめる。
「傑作くん、好き」
「うん」
「好き、好き、大好き。ずっと、言いたかったの」
「うん、しおりちゃん。ぼくも大好きだよ」
傑作くんの声が耳元に迫って、それから頬に、暖かい息がかかった。
初めてのキスの感触は、想像していたあらゆる柔らかさよりも、あたしを夢中にさせていった。いきなり口の中に、傑作くんの舌が入ってきた時にはびっくりしたけれど、強ばっていた体を解すように、傑作くんがあたしを撫でてくれたから、何も怖くはなかった。布団の上に組み敷かれながら、傑作くんに手を伸ばす。タイムリミットが近づいてくるのが、憎くて仕方なかった。何かを悪く思うのなんて、生まれて初めてかもしれない。
「傑作くん、好きだよ。このまま、離れたくない」
最後に想いを伝えると、傑作くんは微笑んで、もう一度キスをくれた。その感触を胸に刻みながら、あたしは元通り、しおりの頭の中に帰っていった。
「なーんでエンジェルちゃんの方が上手くいくのよ!あたしにはぜんっぜん靡かなかったくせに!!」
頭の中に帰ると、槍を持ったデビルっちが、顔を真っ赤にして怒っていた。その意味がわからないまま、熱の残る唇を押さえて、デビルっちを上目遣いに見つめる。
「何をそんなに怒ってるの?」
「そりゃあ怒るに決まってるでしょう!!あたしがあんっなに頑張って誘惑した時は、押されるだけで、指一本触れてこなかったのに、エンジェルちゃんがちょーっと泣いたら、コロっと押し倒しちゃって!傑作くんったら、ああ見えて絶対にSよ!!間違いないわ!!」
そう叫んだデビルっちは、悔しそうな顔をして、真っ暗になった傑作くんの部屋を睨んだ。Sってどういう意味だろうって聞きたかったけれど、デビルっちの気迫が凄すぎて、尋ねることはできなかった。
「でも……傑作くんって、やっぱり優しいわね。暖かいし、お風呂上がりだったのかな?石鹸の香りがしたの!あたしの想像通りの人だったわ」
「ふん……そりゃあ、あたしの惚れた男だからね。優しいに決まってるじゃない」
デビルっちが唇を尖らせて、めずらしくあたしの目の前に座った。いつも掲げている槍も、今日は地面に置かれている。
「キスっていうのも……。あったかくて、柔らかかった。でも、デビルっちは凄いわね。あたし、自分からあんなこと、絶対に出来ないわ」
「あたしを誰だと思ってるのよ。甘ちゃんのエンジェルちゃんとは格が違うの!今回はしおりに譲ったけど、次こそは、傑作くんとその続きをしてみせるんだから!!」
デビルっちが暗闇を見つめて、少しだけ顔を赤らめた。その顔が意味していることがわからなくて、思わず首を傾げてしまう。
さっきまであたしのいた傑作くんの部屋は、明かりが消えて、どんな状況かもわからなかった。きっと、二人ともぐっすり眠っているんだろうけれど、デビルっちは、何をそんなに悔しがっているのだろう。
「でも、まあ、初めては痛いって言うし、二回目の方が、いろいろ都合がいいのかも……」
「ねぇ、デビルっち」
「何よ?」
「キスの続きって、どんなことをするの?あたしにも教えて?」
両手を合わせて問いかけると、デビルっちは大きく口を開けて、それから真っ赤に顔を染めた。その様子に、再び首を傾げると、デビルっちは怒ったように立ち上がって、槍を勢いよくあたしに向けた。その迫力に、声を上げて後ろに仰け反る。
「エンジェルちゃん、まさか、“アレ”を知らないの?」
「“アレ”って?」
「あれだけ『触ってほしい~』とか『離れたくない~』とか言ってたくせに!?なんなのよそれ!計算し尽くした女よりも、天然の方が、男は良いわけ?だったらあたし、一生かかっても無理じゃない!!」
喚きながらどこかへ行ってしまったデビルっちに圧倒されながら、小さくなる背中を見送る。結局、“アレ”の意味はわからなかったけれど、よく考えれば、しおりは今、“アレ”を傑作くんとしているわけだから、しおりが帰ってきた時に聞けばいいのかと、ひとり納得して、崩れていた体勢を直した。
「しおりちゃん。ぼくも大好きだよ」
傑作くんに言われた言葉を思い出して、傑作くんが触れた唇を、指先でなぞった。傑作くんの感触が、匂いが、優しさが、まだそこにあるような気がして、つい顔がニヤけてしまう。大泣きするほど後悔していた自分が、信じられなかった。
傑作くん、好きよ。大好き。
暗闇でしおりと眠る傑作くんに囁いて、あたしもそっと、目を閉じた。いつか、またしおりが体を貸してくれるなら、今度はキスの続きってものをしてみたい。未知の体験でも、傑作くんと一緒なら、きっと何も怖くないから。