ねぇママ聞いて、この恋の話
いっそのこと、誰かに打ち明けてしまいたい。下で暢気に鼻歌を歌っているもくじぃとか、懲りずに求愛してくる五四九兄弟だとか、このさい猫のリリックでもいい。誰かに打ち明けて、そして楽になりたかった。認めてしまいたかった。熱をもった頬が、頭の中までとろけさせて、正常な判断力を失くしてしまう。恋に溺れてしまうなんて、生まれて初めての経験だ。今までそれなりに恋はしてきたのに、どうしてだろう。これが、ロマンス元年の力なんだろうか。
甘い湯気を出すココアを飲み込んで、隣に座る傑作くんを見た。視線がバレないように前髪で隠しながら、ギターを爪弾く横顔を見つめた。そして、無意識に開いていく唇を慌てて閉じる。そんなはずはないと自分を誤魔化すには、もう時間が経ちすぎていた。
その昔、モーツァルトが奏でた変奏曲のように、鼓動が粒を揃えて鍵盤の上を転がり回る。見つめているだけで、ココアの味がわからなくなってしまうくらい、逆上せてしまう。ああ、あたしはもう手遅れだ。シルヴァンドルのように優しい目をした彼に、恋をしてしまった。
「しおりちゃん」
ギターの音色が途切れて、名前を呼ばれる。その声に肩を揺らすと、傑作くんが微笑みながらこちらを見つめていた。
「せっかく二人きりでいるんだから、何か話そうか」
そう言って差し出された手を取った途端、ついに漏れてしまった。唇を跨いだため息が、ココアの湯気を乗り越えて、傑作くんへと届いていく。最後の堤を失って、あたしは手を引かれるまま、傑作くんの腕の中に飛び込んだ。下にはもくじぃがいるのに、五四九兄弟が訪ねてくるかもしれないのに、止められなかった。
「傑作くん、もう気づいてるでしょう？」
「何のこと？」
「とぼけないでよ。気づいていなきゃ、こんなこと普通しないわ」
指先が、一本一本形を確認するように交わっていく。手が繋がるだけなのに、見とれてしまうくらい甘美な光景だ。重なった手が頬に触れて、上を向かされる。あたしの手の甲を隔てて、傑作くんの指先が肌に触れた。甘いため息が、また漏れてしまう。
「確かにしおりちゃんはわかりやすいよね。もくじぃや双子が気づかないのが不思議なくらい」
「気づいてて、見て見ぬ振りをしていたのね」
「見て見ぬ振りってわけじゃないよ。ぼくだって、好きな子と両思いだってわかったら、いつも通りでいられないし、これでもいろいろ考えてたんだから」
傑作くんの顔が近づいて、唇の間で吐息が交わる。もうほとんど告白同然の行為をしているのに、なかなか最後の一線が超えられなかった。意地でもあたしから言わせたいのだろうか。それとも、無意識に焦らしているのか。顔はこんなに近いのに、傑作くんの考えていることがわからなかった。
「ねぇ、傑作くん。ここは、あたしの部屋よね？」
「そうだよ」
「まだ昼間だし、下にもくじぃもいるわ。それに、休憩時間ももうすぐ終わる」
「知ってるよ。でも、休憩時間に自分の部屋にぼくを誘ったのはしおりちゃんだ」
目の前で弧を描く唇に、さっきの答えが前者だったと知る。見かけに似合わず嗜虐的な傑作くんの笑みに、体の力が抜けていった。繋いだ手の平が辛うじて、あたしの体重を支えてくれる。限界は近づいていた。恋があたしをダメにしようと、理性を誑かしてどこかへやってしまう。下から、もくじぃが傑作くんを呼ぶ声がした。タイムリミットだ。
「傑作くんの、いじわる」
羞恥に涙が流れて、そのまま二文字の言葉を呟いた。最後の音が消える前に、唇が重なって声ごと飲み込まれてしまう。忘れていたココアの甘さが、舌の上に戻ってきた。恋があたしを誑かす。恋があたしを擽る。恋があたしをダメにする。
「しおりちゃん、しばらく部屋で休んでる？そんな顔じゃあ、もくじぃの前にいけないよね」
「……傑作くんのせいじゃない」
「あはは。じゃあ、責任をもってぼくが看病するって、もくじぃに伝えてくるよ」
制止の言葉を伝える前に、ドアが閉まって傑作くんは行ってしまった。熱に浮かされたままの甘い唇が、とろけた表情を戻させずに、あたしをベッドに埋めてしまう。
優しい目をしたシルヴァンドル。でも、あたし、あの人はとんでもない策士だと思うの。
鍵盤を転がる変奏曲は、いつまでも終わってくれない。あたしを受け止める振りをして、彼はあたしから全てを奪ってしまうんだわ。甘い香りに惹かれる少女を、自分の腕に収めるために。
ドアがノックされる音がして、赤い顔をベッドから上げた。扉の向こうにいる彼と、その後に待っている甘い時間を想像して、一瞬で体が溶けてしまう。ねぇママ聞いて、この恋の話。こんな話、同じ恋をした貴女にしか、話すことはできない。
ドアが開いて、いつになく真剣な目をした傑作くんと視線が重なった。ベッドに転がっているあたしを見て、その顔が愉しそうに笑う。
ああ、恋に溺れたあたしを、どうか許してください。 笑顔の彼の手を取るとき、あたしは幸せで仕方がないの。
傑作くんがあたしに覆い被さって、そして優しく名前を呼んだ。惚けたまま目を瞑るあたしの心を恋が擽ると、甘い気持ちが、部屋中に広がった。