愛してカメリア
食器を拭き終えて湿った布巾を、畳みながらシンクの上に片付ける。夕飯を食べ終えた台所は、夜の色に飲まれて、とても静かだ。流しの周りだけを照らしている蛍光灯が、暗澹とした雰囲気を、いっそう強くしている。蛇口を捻って、手を洗ったあと、冷えた指先を温めるように、口元に近づけた。息を吐くと、一瞬だけ指が温かくなる。けれど、それも長くは続かなくて、熱を揉み込むように、手を擦り合わせるしかなかった。薄暗い場所に独りでいるせいで、その動作が余計に虚しいものに感じる。
「しおりちゃん、お風呂空いたよ」
もう一度手に息を吹きかけると、背後から傑作くんの声が聞こえた。振り返ると、台所の暖簾を捲って、傑作くんが上気した顔を覗かせている。暗いのが不便だと思ったのか、こちらに近づきながら、電灯のスイッチを入れた。寂しげだった室内が、一気に明かりに照らされる。
「お皿洗い、お疲れ様。ゆっくりお風呂に浸かって、休んできたら?今ならまだ、暖かいし」
タオルで髪をわしわしと拭きながら話す傑作くんを、明るさに慣れてきた瞳で見つめる。湯気が出そうなほど火照った顔を見ていると、自分まで暖かくなってくるようだった。冷えた指先がその温もりを恋しがって、傑作くんに自然と近づく。髪から滴る雫を掬うように、人差し指を、傑作くんの顔の横に伸ばした。
「指がね、冷たくなっちゃったの」
「指?」
「そう。冬の洗い物って、これだから嫌いなの。食器洗い機が欲しいのに、もくじぃが許してくれないから」
不満を口にしながら、傑作くんの胸に額を押しつける。お風呂上がりの石鹸の香りが、心を穏やかにさせていった。黙って体重を預けるあたしを不思議に思ったのか、傑作くんがあたしの手を握る。冷えた指先が、傑作くんの熱を奪うように絡みつく。
「ほんとだ。こんなに冷えて、しおりちゃん、大丈夫なの?」
「平気よ。傑作くんが、こうして温めてくれるもの」
繋がった手を腰に乗せて、傑作くんに抱きついた。あたしの様子を伺っているのか、傑作くんの髪から落ちた雫が、あたしの頬を濡らしていく。それが、涙のように輪郭を伝って、木製の床に落ちた。古びた木に、水気が吸い込まれていく。
そのまま言葉も交わさずに、無言で傑作くんと抱き合った。夜の台所で抱き合うなんて、なんだか間抜けだ。それに、早く髪を乾かさないと、傑作くんが風邪を引いてしまうかもしれない。
わかっているのに、体が傑作くんから離れようとしなかった。すっかり暖まった指先を解いて、しっかりと腰に回す。石鹸の匂いも薄まって、代わりに傑作くんの肌の匂いがしてきた。
「しおりちゃん。甘えてきてくれるのは嬉しいけど、そろそろもくじぃが帰ってきちゃうよ」
「いいのよ。見せつけてやれば。いつも狙ったようにイイところで帰ってきて、こっちも鬱憤が溜まってるの」
「しおりちゃんはそれでいいかもしれないけど、ぼくはさ……言い方は大袈裟だけど、今のもくじぃは、ぼくの義父みたいなものなんだから」
傑作くんはそう言って、薬指に付けられた指輪を、あたしの目の前に持ってきた。その顔を見上げると、勘弁してくれというように、眉がハの字に垂れ下がっている。
「傑作くん、もくじぃなんかに怯えてるの?」
「怯えてるっていうか、見つかると気まずいっていうか……」
「大丈夫よ。何か言われても、あたしが守ってあげるから」
目の前の指輪に口付けて、ついでに傑作くんの顔も、キスで塞いでおいた。困った顔をしているのに、あたしを無理矢理離さないところが、傑作くんらしいな、とも思う。
あたしに甘い傑作くんを良いことに、抱きついたまま台所に立って、思う存分に傑作くんの匂いを吸い込んだ。肺が優しい空気に満たされると、身も心も傑作くんに抱きしめられているような気がして、嬉しくなる。その気持ちを伝えるために、背伸びをして、顔を近づけた。唇が重なる寸前のところで、間延びしたもくじぃの声が、玄関から響いてくる。
「ただいま~。……んん?しおり?傑作?どこにいるんだ?」
慌ててあたしから離れようとする傑作くんを両腕で掴まえて、暖簾から覗く顔を睨みつけた。頭上から、泣き声に似た傑作くんの声が降りかかる。抱き合ったあたしたちを見たもくじぃは、それ以上に大きな悲鳴を上げて、後ろに仰け反った。
「な、な、なーにをやっているんだお前たちは!!!」
「見ればわかるでしょ。もくじぃこそ、新婚夫婦の逢瀬を、邪魔しないでくれる?」
バチバチと火花を焚かせるあたしたちを見て、傑作くんが盛大なため息をつく。あたしの肩にかかっていた腕も、諦めたように地面に下がっていた。そんな傑作くんを他所に、抱きつく力を、余計に強くする。
「あのねぇ。いくら新婚夫婦でも、そういうことは、他人に見られないようにするものなんです。全く今時の若いもんは、節度をわきまえ――」
「もうっ、お説教は後でいいわよ。あんまりうるさいと、ひ孫の顔が見られなくなるわよ?」
頬を膨らませたあたしの声に、二人の低い声が重なった。あわあわと両手を動かす傑作くんを見ながら、もくじぃも頬を赤くして、台所から出て行く。やっと邪魔者がいなくなったと、傑作くんに笑顔を向けると、まるで長距離走をしてきた後のように、汗をたくさん掻いていた。
「傑作くん、どうしたの?」
「……あーあ、しおりちゃん。明日からもくじぃが口を利いてくれなくなったら、君のせいだからね」
傑作くんの眉が、怒ったように上に釣り上がった。厳しい表情に、肩を竦めて、主人の機嫌を伺う猫のように、顎を内側に引く。けれど、その眉もすぐに下がって、抱き上げられるように、腰に腕を回された。続いて耳に落ちる声に、あたしは頬を赤くする。
「とりあえず、ここじゃ何もできないから、二人の部屋に戻ろうか」
そう言って笑う傑作くんに、彼も満更でもないんだなと、確信する。
暗澹としていた部屋がピンク色に染まるくらいに、あたしたちの距離が近くなる。暖まった指先で傑作くんの唇をなぞりながら、絡み合う笑い声に、そっと頬を寄せた。