世界で一番小さい屋根

 ぽつぽつぽつと、雨が降る。走って帰るには、家までの距離が遠い。だからと言って、雨が降る街は、雨宿りを続けるには寒すぎた。せめて、どこかの喫茶店まで走ろうかと思ったけれど、薄暗い道を走るのは、なんとなく怖い。
 ああもう、ツイてないなぁ。
 いつもなら、折りたたみ傘の入ったバックを持っているのに、今日に限って、違うバックを持ってきてしまった。せっかく買った雑誌が濡れないように、胸の前で抱えるように持つ。吐いた息が、湿気に混じって、淀んだ空気を作り出した。
 電話して、もくじぃに迎えに来てもらおうかな。
 後できっと、うるさいくらいに文句を言われるのは目に見えているけれど、このままここで立ち往生してるわけにはいかない。バッグから携帯を取り出して、はんせい堂の番号にカーソルを合わせた。通話ボタンを押そうとしたところで、目の前に影ができる。

「しおりちゃん?」

 名前を呼ばれて顔を上げると、見慣れた顔が目に入った。湿気のせいで、いつものもじゃもじゃ頭が萎れているけれど、はんせい堂のエプロンを着ている彼は、間違いなく傑作くんだ。大きな傘から雫を垂らして、驚いたようにこちらを見つめていた。

「偶然だね。買い物に行ってたんじゃなかったっけ?」
「買い物は終わったんだけど、この雨で立ち往生よ。今日に限って、傘を忘れちゃったの」
「ああ、急に降ってきたもんね。でも、丁度良かった。一緒に入って帰ろうよ。雨宿りしてたら、日が暮れちゃうよ」

 そう言って、傘を傾けてくれた傑作くんに甘えて、軒先から足を一歩踏み出す。大きく思えた傘も、大人が二人入れば、途端に窮屈になってしまった。足下の水たまりに気をつけながら、傘を持つ傑作くんを見上げる。柄の部分を握った手が、顔のすぐ横にあった。

「ごめんね、傑作くん。狭いでしょ」
「ううん。このくらい平気だよ。それよりしおりちゃん、肩、濡れてない?もう少しそっちに傾けようか?」

 傑作くんの問いかけに首を振って、雨に濡れる、エプロンを付けたままの肩を見つけた。自分はびしょ濡れなのに、人の心配をするなんて、傑作くんらしい。このまま風邪を引かれては困るからと、柄を持つ手に自分の手を重ねて、腕が触れ合うくらいに距離を詰めた。水たまりが靴を濡らして、靴下を湿らせる。不快な感触も、今はどうでも良かった。

「傑作くんの方が濡れてるじゃない。風邪引いちゃうわよ」
「ぼくは大丈夫だよ。これでも健康には自信があるんだ」
「そんなこと言って。この間も喉が痛いって、飴をたくさん舐めていたじゃない」

 重ねた手を離すタイミングをなくしてしまって、二人で柄を持ったまま、雨降りの道を歩く。すれ違う人は、みな傘で顔を隠して、足下ばかりを見つめていた。私みたいに、上を向いている人は、少ないだろう。
 空の様子を確認する振りをして、傑作くんの顔を盗み見る。真っ直ぐ前を見つめる傑作くんの視線は、あたしと交わることがなかった。雨音が、傘の中で流れる沈黙を、轟々と掻き消す。傑作くんの手は、外気のせいで、冷たくなっていた。

「蝙蝠傘は、世界で一番小さな、二人のための屋根である」
「え?」
「しおりちゃんは知らない?とある詩人が言ったんだ。ロマンティックな言葉だよね。今日だけで、どれだけの小さな屋根が、この街に生まれているんだろう」

 傑作くんは言いながら、あたしの方に傘を傾けた。雫が傘から落ちて、あたしのすぐ横で、水たまりに小さな波紋を作る。

「傑作くん、肩が濡れちゃうよ」
「しおりちゃんが濡れるよりは、ずっといいよ」
「それじゃあ、屋根の意味がないじゃない。あたしだって、傑作くんが濡れるくらいなら、自分の肩を濡らしたいわ」

 雑誌を抱えていた手も重ねて、傘を真っ直ぐに立て直す。何も言わずに見つめ合っていると、なんだか変な気分になった。まるで、傑作くんと、恋人同士にでもなったようだ。
 そう思ったのは傑作くんも同じだったようで、お互い気まずそうに、視線を逸らす。雨の雫が、地面を跳ねて、足下を濡らしていった。お気に入りのスキニーが、脛の所まで、濃い色に染まっていた。

「帰ろうか、しおりちゃん」
「う、うん」

 傘の中に流れるぎこちない空気を吸いながら、雨の中に足を踏み出す。柄を持つ手は、相変わらず、重なったままだ。それでも、手を離す気にはなれなくて、黙ったまま、二人だけの屋根を空に掲げる。
 雨は、いつまで経っても、止む気配はなかった。触れ合う腕に、外気と違う暖かさを感じながら、水たまりの増える道を、はんせい堂まで歩いていった。