My dearest Coppelia.
ベッドに片足を掛けると、スプリングが鈍い悲鳴を上げた。その音を聞いて、しおりちゃんが不思議そうにこちらを見上げる。薄いキャミソールの肩紐が下がり、もう少しで、胸元が露わになりそうになっていた。それを視線で確認しながら、右手を伸ばして、顔を包むように顎に添える。あどけない瞳が瞬きの合間に、ぼくを吸い込むように見つめていた。
「傑作くん?」
ぼくの名を呼ぶ声を聞いて、どうしようもない熱が込み上げてくる。なぜ、こうも現実は上手くいかないのだろう。やっと、心から愛せる人を見つけたのに、その人は人間ではないなんて、シェイクスピアも引っ繰り返るほどの悲劇だ。涙の代わりに、自嘲の笑みが零れてしまったって、仕方ない。
「しおりちゃん」
黒目をじっと見つめながら、シーツに押しつけるように、華奢な体を押し倒す。キャミソールの胸元に手を入れ、力任せに引き下ろすと、大きな音をたてて、薄い布が破れた。露わになった胸元に、しおりちゃんは悲鳴を上げてそこを隠そうとする。その手の動きを封じるように掴んで、頭の上で手首を束ねて拘束した。突然の出来事に、しおりちゃんの目が、怯えるように小さくなる。
「傑作くん、どうしたの?やめてよ、こんなこと」
懇願を聞き流しながら、裸の胸に、耳を押し当てた。滑らかな白磁の肌からは、生きている鼓動が感じられない。息をする度に上下するはずの腹も、そこに留まったままだ。男を慰めるために作られた愛玩人形とは、こういうものを言うのか。
「しおりちゃん、ぼくだけを見て。ぼくだけを愛して。君の、本当の心で、ぼくのことだけを考えて」
唇を重ねて、陶器のような頬を手の平で撫でる。慣れ親しんだはずの愛撫にも、今のしおりちゃんは、嫌がるように体を捩るだけだった。それが気に食わなくて、手首を掴んでいた指に、思いきり力を入れた。痛みを感じたのか、悲痛な叫びが、シーツの中に吸収される。
「ぼくは、嫌だよ。君がぼくの手から離れていくなんて。しおりちゃんは、もう、ぼくの物なんだ。二度と、離してなんてあげない。だから、例えプログラムだとしても、忘れちゃだめだよ。ぼくは、君を愛しているんだ」
「プログラム……?」
この人形は、欠陥品だから、一年しか記憶が保たないんだ。
しおりちゃんと出会った時に、店主の老人から言われた言葉を思い出す。
人形なんて、買うつもりはなかった。けれど、冷やかし程度で訪れたあの店で、処分寸前のぼろぼろになった人形を見つけた時に、どうしても目が離せなくなった。男たちに玩ばれて、希望を失った視線でぼくを見上げる顔は、生きている人間そのものだった。あの時の、しおりちゃんの目から流れ落ちた涙を、ぼくは未だに忘れてはいない。
「ねぇ、しおりちゃん。好きなんだ、君のことが。狂ってるって笑われてもかまわない。例え作り物だとしても、ぼくにとってしおりちゃんは、かけがえのない大切な人なんだ」
「……ねぇ、傑作くん。さっきから何を言っているの?プログラムって何?あたし、人間じゃないの?作り物なの?」
震えていく声に答えられないまま、情けない嗚咽が、涙と一緒に、しおりちゃんを濡らしていく。タイムリミットは、あと数分だ。明日が来れば、しおりちゃんは全てを忘れ、ぼくと出会う前の、あの笑顔を失った、哀れな人形に戻ってしまう。
「忘れないで、しおりちゃん。ぼくは、ここにいるんだ。君は独りじゃない。ぼくが、ぼくがしおりちゃんを……!!」
「泣かないで、傑作くん。傑作くんが泣いてたら、あたしも悲しくなっちゃうよ。あたし、忘れないから。傑作くんのこと、ずっとずっと好きだよ。だからお願い。泣かないで。誰かの悲しい涙を見るの、あたし、嫌なの」
力の抜けた指先から、しおりちゃんの手が抜けて、ぼくの頬をそっと撫でた。その手に縋るように顔を押しつけて、子供のように声を上げて、だらしないくらいに泣き叫ぶ。しおりちゃんの顔が、ぼくを心配するように歪んでいるのがわかった。その優しさも、明日になれば、消えてしまうのか。リセットボタンでなくなってしまうほど、ぼくらの愛は、儚いものだったのか。
「傑作くん、あたし、ずっと傑作くんと一緒にいたいよ。あたしを救ってくれたのは、傑作くんだけだもの」
「…………」
「嬉しかった。好きって言ってくれて。愛してるなんて、あたし、生まれて初めて言われたの。傑作くんが、あたしをあの凄惨な場所から、連れ出してくれたんだよ。あたし、傑作くんと出会って初めて、生きていたいって思えたの」
しおりちゃんがゆっくり起き上がって、ぼくの体を抱きしめた。細い腕が、巻き付くように背中に回される。遠くで、時計の秒針が動く音が聞こえた。時を止める魔法が使えるなら、ぼくは、命を失ったってかまわない。
「忘れたりしないよ。こんな大切な人のことを忘れるなんて、そんなのあんまりじゃない。やっとあたし、幸せになれたんだから。――ねぇ、傑作くん。好きよ、愛してる」
しおりちゃんが体を離して、ぼくの唇に口付けた。それと同時に、低い鐘の音が、暗い部屋に響き渡る。街中の時計が、一斉に空を指さした。背中に回っていた腕の力が抜けて、そのままベッドに小さな体が埋もれる。頬を一筋、涙が伝うのがわかった。
「――――しおりちゃん?」
冷たい顔に手を当てると、あの日と同じように、光を失った視線が、ぼくを捕らえた。愛することも、愛されることも知らない哀れな人形が、黙ったまま涙を流す。力のない瞼がやっと上がって、捨てられた子犬のような目で、ぼくの顔を見つめ返した。渇いた唇が、そっと、言葉を紡ぐ。
「あなたは、だあれ?」
いつの間にか、外では冷たい雨が、静かな街を濡らしていた。部屋の中には、さっきと変わらない、秒針の動く音だけが続いている。部屋に響く呼吸の音は、ぼく独りだけのものだ。
何も、何も言えないまま、ぼくは今にも崩れそうなその華奢な体を、あの日のように、優しく抱きしめた。止まらない秒針が、ぼくらの新たなタイムリミットを、雨の中、刻んでいく。