すりりんごの記憶
普段より重くなった瞼を開けて、見慣れた天井を見つめる。全身が汗を掻いていて、気持ちが悪い。おでこに貼っている冷えピタは、とっくに温くなっていた。けれど、さっき起きた時よりは、調子が良い。何も考えず、ゆっくり眠っていたのが良かったのだろうか。そこまで考えて、布団の中で眠る、空っぽの右手を軽く握った。目が覚めて、そこにあの温もりがないことが、ちょっぴり寂しい。「おお、目が覚めたか。しおり」
軽くなった右手に、しばらく感傷に浸っていると、穏やかで、ちょっと間抜けな声があたしの名前を呼んだ。誰もいないと思っていた部屋で、急に声をかけられて、不意打ちを喰らう。重たい頭を捻り、声のした方へ視線をやると、もくじぃが本を置いて、こちらへゆっくりと歩いてきた。冷えた手の平が、額に触れる。
「うん。まだ熱はあるな」
「もくじぃ、どうしてここに?」
「ん?傑作に頼まれたんだよ。自分は店番をやるから、しおりのことを頼みますってな」
冷えピタを取り替えながら言うもくじぃに、眠る前に見た、傑作くんの顔を思い出す。何も気にしないでと言ってくれたけれど、やっぱり忙しかったのだろうか。それなのに、あんなわがままを言って、悪いことをしたなと、唇を噛む。落ち込んでいく思考を遮るように、もくじぃの貼った冷えピタが、ツンと頭の中に響いた。
「わっ、冷たい!!」
「冷たいと思ったなら、熱が下がってきているんだろうねぇ。全く、風邪を引いて寝込むなんて情けない。傑作にも、ちゃんとお礼を言っておきなさい。だるくて歩けないお前を負ぶって、病院まで連れて行ってくれたんだから」
ぶつぶつとうるさいもくじぃの小言に、「わかってるわよ」と、小さく布団の中で返事をした。あたしだって、引きたくて風邪を引いたわけじゃない。それに、傑作くんには、これ以上ないというくらい、感謝してるんだ。今更もくじぃに言われなくたって、そんなことは知っている。
「そういえばしおり、いっぱい寝て汗を掻いただろう。ちょっと席を外すから、その間に着替えておきなさい。濡れたまんまでいたら、汗が冷えて、体に悪いから」
子どもにするように一式用意された服を見て、また、「わかってるわよ」と言いそうになった。あたしだって、もう成人したいい大人なんだ。わざわざもくじぃに言われなくたって、着替えなきゃいけないことはわかっている。
ぶつぶつと文句を言いながら、清潔なパジャマに袖を通す。着替え終わって、ガランとした部屋に、独りでため息をついた。もくじぃの小言はうるさいけれど、目が覚めて独りじゃなかったことに、ほっとしている自分がいる。それに、もくじぃが相手だと、気を遣わずに、思いきりわがままになれた。傑作くんにも甘えたいけれど、嫌われるのが怖くて、やっぱりどこか、遠慮してしまうから。
「しおり、着替え終わったかい?」
ドアの向こうから聞こえた声に返事をして、脱いだパジャマを畳んで床に置いた。もくじぃが部屋に入ってくるのを見ながら、布団の中にまた戻っていく。
「あれ?もくじぃ、それ……」
「ああ、傑作から食欲がないって聞いたからね。だからって何も食べないと、薬も飲めないし、何より体が保たないだろう。少しでもいいから、お腹に入れておきなさい」
もくじぃはそう言って、手に持っていたリンゴを、ガラスの器の中に擦りおろした。甘い匂いが部屋の中に広がって、鼻孔に届くと同時に、遠い昔の記憶が蘇ってくる。
子どもの頃、パパもママもいなくて、風邪を引いて寝込んでいたあたしに、もくじぃが作ってくれた、蜂蜜入りのリンゴヨーグルト。具合が悪いときにだけ食べられる、あたしが子どもの頃のご馳走だった。手渡された器に、あの時のやわらかい気持ちが戻ってきて、一瞬だけ、体調が悪いことを忘れてしまう。スプーンで口へ運ぶと、驚くほどすんなりと喉を通っていった。
「懐かしい味……。もくじぃ、覚えててくれたんだ」
「当たり前です。しおりが食欲のないときにはコレって、野辺留家では常識なんだから」
得意げに言うもくじぃに、苦笑をもらしながらリンゴを口へと運ぶ。どんなに意地を張っていたって、やっぱり家族は家族だ。このはんせい堂で、一番あたしのことを知っているのは、もくじぃなんだろう。だてに長い間、一緒に暮らしていたわけじゃない。
「懐かしいねぇ。何年前だったか、しおりが熱を出して寝込んだって、お前のお母さんから電話があってな。慌てて駆けつけたら、お前は頭が痛いと泣いているし、お父さんとお母さんは、しおりが苦しそうって泣いているし、もう大変だったんだよ」
リンゴを食べながら聞く昔話に、あたしの覚えていた記憶と、違う話を耳にする。
あの時は、わがままを言うあたしをどうにかするために、仕方なくもくじぃを呼んだはずだった。パパやママがあたしを心配していたなんて、聞いたことはない。どちらかというと、風邪を引いたあたしを迷惑がって、もくじぃにその世話を押しつけたのだと思っていた。
「今の話、本当?パパとママが泣いていたって」
「ん?本当に決まっているだろう。あんまりにもうるさいから、わたしが面倒を見るから、お前たちはさっさと仕事に行きなさい!って、無理矢理追い出したんだよ。まあ、お前はまだ小さかったから、そんなことは覚えていないだろうけどねぇ」
誰も、迷惑だなんて思ってないよ。しおりちゃんが心配だから、こうして仕事を休んで、看病してるんだ。
傑作くんに言われた言葉が、もくじぃの声と重なって、胸の奥に広がる。寂しいと泣き叫んでいたあたしの周りには、いつも、あたしを想ってくれる人たちがいてくれたのかもしれない。そのことに、あたしは、何年も経ってやっと気づけた。微笑む傑作くんにお礼を言う代わりに、スプーンを握った手に、ぐっと力を込める。
「それにしても、傑作がはんせい堂にいてくれて良かったねぇ。しおり、婿を選ぶなら、ああいう男にしなさい」
突然言われた台詞に、口に入れたリンゴを、ぶっと吹き出しそうになる。思考を読まれたかのような言葉に、咽せそうになる呼吸を整えながら、覗うようにもくじぃの顔を見た。頬が赤くなっているのは、風邪のせいと誤魔化せるだろうか。
「ど、どうして急に傑作くんの話?」
「気づいてないのかい?傑作は気を遣ってくれたんだよ。お前が思いきりわがままを言えるように、わたしに看病を頼んでな。本当は自分だって、しおりのことが気になって仕方がないくせになぁ。あんな男、今の時代にはなかなかいないぞ」
噛 みしめるように頷くもくじぃに、せっかくのリンゴの味がわからなくなる。この人は、どこまであたしたちのことをわかって言っているのだろうか。まさか、傑作くんと付き合っていることが、もくじぃにバレているはずがない。鈍感なもくじぃのことだ。きっと深い意味はないのだろう。
そう考えて、適当に返事をしながら、残りのリンゴを口の中に流し込み、空になった器を、ベッドの横に座るもくじぃに差しだした。それと引き替えるように、風邪薬の入った袋を渡される。
「はい、しっかり二錠。ちゃんと飲むんだよ」
「わかってますー。もう、いい加減子ども扱いはやめてよね!」
「一丁前の口を聞きおって。昔は『苦いのきらいー!!』とか言って、熱があるのに、部屋中を逃げ回っていたくせに」
また昔話を始めるもくじぃに、文句を言おうと口を開く。けれど、笑ったもくじぃの目元に、想像以上に皺が刻まれていて、声にしようとしていた言葉が、喉の奥で消えていった。
もくじぃって、こんなにしわくちゃだったっけ。
頭に浮かんだ疑問に、改めてもくじぃの顔と手を見る。懐かしいリンゴの味も、薬を手渡すもくじぃの動作も、昔と同じなのに、そこには確かに月日が経過していた。薬の飲めなかったあたしが、大人になっているのだから、そんなのは当たり前のことなんだけど、唐突に、そのことが悲しくなる。
あたしが大人になったように、もくじぃも年を取る。そしていつか、その時が来てしまう。目の前にいるもくじぃは、そんなことを感じさせないくらいに元気で、あたしがこんなことを考えていると知ったら、怒り出してしまいそうだけれど、これは、逃げられない事実だ。
薬を受け取った手が震えているのを、気づかれないようにしながら、熱くなる目頭と一緒に、薬を飲み込む。ごくりと動いた喉の痛みが、いつまでもヒリヒリと疼いていた。
「うん。ちゃんと飲んだね。偉い偉い」
また子ども扱いして。普段ならそう返す言葉を言わずに、もくじぃの顔を見つめ返す。しわくちゃの顔。薄くなった髪の毛。変わらない優しい目元。お気に入りのひげの形。パパもママもいなくて、泣いていたあの日に、もくじぃの顔を見て、ほっとした気持ちが蘇ってきた。あたしの大事なおじいちゃん、と、心の中でこっそり呟く。
「ありがとう、もくじぃ。リンゴ、美味しかったよ」
勇気を出してお礼を言ったのに、もくじぃは軽く返事をしてあたしから顔を逸らしてしまった。けれど、それが照れ隠しなのが、今のあたしにはなんとなくわかる。
穏やかな気持ちを抱えながら、前より楽になった体を、布団の中に沈ませる。片付けをするもくじぃの横顔を見ながら、これからはもう少し素直になってみようかな、なんて、らしくもないことを考えた。頭の中で、デビルっちが驚いた顔でこちらを見つめている。
「おお、そうだそうだ。忘れるところだった」
「なあに?もくじぃ」
「これこれ。風邪を引いたときには、昔からこれが一番効くんです」
そう言ってもくじぃが取り出したネギに、しんみりしていた気持ちがどこかへ吹き飛んでいく。そして、小さくなっていたデビルっちが、元気を取り戻していった。顔の筋肉が自分でもわかるくらい、斜めに歪んでいく。
「もくじぃ……それだけはやめてって、毎回言ってるでしょう!!」
「まーたしおりはそんなワガママを言って!!ネギはね、長い間日本の民間療法として親しまれていて、その匂いには睡眠を促す効果が――」
「あー!!もう、ウンチクはあとで聞くから!ネギを持って、さっさと出て行って!薬も飲んだし、あとは寝ていれば治るから!」
最後まで、ネギを首に巻こうとするもくじぃを無理矢理追い出して、ため息をつきながらベッドに横たわった。せっかく人が素直になろうと思ったのに、もくじぃのせいで台無しになってしまう。けれど、この距離感が、なんだか心地よかった。あたしともくじぃは、こうやって言い合っているほうが、ふたりらしいのかもしれない。
満たされたお腹と、下がっていく熱に、今までよりも穏やかに眠りが訪れた。すうっと微睡む景色の中で、あたしはひとつの足音を聞く。その音の主が、あたしには顔を見なくても、すぐにわかった。
(傑作くん)
姿を確認しようと瞼を開けるけれど、睡魔に圧されて力が上手く入らない。それでも、どうしてもあの温もりが恋しくて、思い通りに動かない腕を、必死に音の方向に伸ばした。夢の中でも、幻だっていい。その手を掴んで、眠りにつきたい。
(傑作くん)
願いが通じたのか、暖かい手が、そっとあたしの手の平を握った。その感触に緊張が解けて、抑えていた睡魔がぐっと頭の中を覆う。もくじぃのとよく似ている、けれど、もっと大きくて、皺のない手が、あたしの頭を優しく撫でた。
傑作くん。元気になったら、いっぱいいっぱい、ありがとうを言わせてね。そして、できたら、もう少しだけ、素直に甘えてみたいの。
天の邪鬼なあたしだけれど、もっと貴方に近づきたいから。
果てしないと思っていた時間にも、いつか終わりが来ることを、あたしは知っている。だからこそ、後悔のないように、気持ちを伝えていきたい。もくじぃや傑作くんに、出会う人全てに、ありがとうを伝えたい。
そして、いつか。傑作くんと家族になって、当たり前のように、心の内をさらけ出せるようになったら、こんなに幸せなことはないだろう。その時には、もくじぃやリリックも、傍にいてくれたらいいと思う。
微かにリンゴの味が残る唇に、慣れた感触が触れた。それを頼りにしながら、幸福な夢を見られることを願い、意識を手放す。あたしを包む温かな愛が、手の平の間で、そっと輝いていた。