口紅ランデブー
赤い赤い口紅を、鏡を見ながら唇に乗せていく。艶やかなその色は、あたしの大好きな色だ。りんごに、いちごに、さくらんぼ。赤い果実はどれも、恋の味がする。馴染ませるように唇を結んで、それからにっこり微笑んだ。メイクひとつで、女の子の気分は変わる。寒い冬に映えるように、赤い唇が鏡の中に浮かんでいた。「傑作くーん、もくじぃー」
鼻唄でも歌い出しそうな気分で階段を駆け下り、サロンの中を見渡す。けれど、そこには誰もいなくて、空のティーカップが転がっているだけだった。肩を竦めて、唇を尖らしながら古書部へと移動する。せっかくだから、自分だけじゃなく、他の人の意見も聞いてみたかった。
「傑作くーん」
古書部を覗いて名前を呼ぶと、本棚の影から傑作くんの返事が聞こえた。両手を合わせて飛び跳ねたあと、声のした方へ走っていく。床に座り込み、本の整理をしていた傑作くんは、しゃがんだまま本に目を落としていた。上から見ているせいで、奇抜なもじゃもじゃ頭しか見えない。
「傑作くん、もくじぃはどうしたの?」
「配達に行くって、さっき出て行ったよ。帰ってくるのは、もうしばらくあとになると思うけれど」
そう言って、傑作くんがやっとあたしの方を向いた。赤い唇に、すぐに気がついてくれると思ったけれど、薄暗い本棚の間では色がよくわからなかったみたいだ。笑顔であたしを見上げたまま、「もくじぃに何か用だった?」なんて、とんちんかんな質問を投げかけてくる。確かにもくじぃにも見てほしかったけれど、あっちはついでだ。本命は目の前にいるこの人なんだから、まずは傑作くんに気づいてほしい。
「用ってほどでもないんだけど」
言いながら、何でもない風を装って傑作くんの隣に座った。埃臭い古書部に、カーテンの隙間から光が差し込んでいる。細い光が、傑作くんの持っている本に一直線に当たっていた。まるで、絵本の中のような、幻想的な光景だ。
「傑作くん、何か、変わったことはない?」
「変わったこと?特にないけど」
「もっとよく考えて。絶対に何か変わってるはずだから」
わざと唇を尖らせて、傑作くんに顔を近づけた。細い光が唇に当たるように、体を前のめりにする。唇の先だけ暖かくなったところで、もう一度傑作くんを見つめた。薄暗い室内で、傑作くんの顔が、黒くぼやける。
「あ……口紅の色、変えた?」
「そうなの!流行色の赤色。似合ってるでしょう」
口紅が映えるようににっこり微笑んだのに、傑作くんは黙ったまま何も言わなかった。予想外の行動に、口を隠して慌てて俯く。そんなに似合ってなかったかしら。確かに赤は大人っぽい色だけど、普段から赤を着ているから、馴染んでくれると思ったのに。
「……あたし、似合ってない?」
「いや、そんなことはないんだけど」
傑作くんの声が途切れて、代わりにコトンと本が置かれる音がした。その音に気を取られているうちに、目の前が暗くなる。日が当たらなくて、体は寒いのに、唇だけは火傷しそうなくらい熱かった。唇の間に差し込まれた舌が、不器用にあたしの舌と重なる。
「似合ってるし、可愛いけれど、ちょっと目立ちすぎかな」
「なによそれ、目立っちゃダメなの?」
「これ以上しおりちゃんにファンが増えたら困るよ。双子だけでも、結構心配なのに」
その言葉のあとに、また唇が塞がれた。本棚に押しつけられて、艶っぽい声が口から漏れる。キスのあとに目を開けると、暗闇に慣れた目に、傑作くんの顔が映った。さっきまであたしの唇に乗っていた赤が、傑作くんの口の端にも付いている。その色を人差し指で拭って、傑作くんに見えるように差しだした。傑作くんの目が、鮮やかな赤を捉える。
「傑作くんにまで、赤が移っちゃった」
「ほらね。これじゃあしおりちゃんとキスしたってバレバレだよ」
「あーあ。せっかく新しく買ったのに」
「その色を塗るのは、ぼくと二人きりのときだけにしてね」
赤い口紅を指で拭われて、その色は傑作くんのエプロンへと消えていった。あっけなかった彩りに頬を膨らませて、元の色に戻った唇を傑作くんに近づけた。そのままキスがしたかったのに、玄関から聞こえた暢気な鼻唄に、甘い空気を妨害される。
「たっだいま~。あれ?傑作?どこに行ったんだ??」
近づいてくるもくじぃの声に苦笑して、立ち上がる傑作くんを見送った。もくじぃにバレないようにしゃがんだまま、傑作くんの足にもたれかかる。エプロンの端に、あたしの唇に付いていた赤が残っていた。その染みが、なんだかとても卑猥なものに見えて、思わず頬を赤くする。
本棚に隠れたまま傑作くんと手を繋いで、指先をそっと絡めた。艶やかな赤色がなくても、あたしたちの関係は、充分艶めいている。日の光に人差し指に残った赤を照らして、それから静かに微笑んだ。今度赤い口紅を塗った日には、傑作くんの唇に、甘い熱を灯してあげよう。