ねこはなんでも知っている

 昼間の太陽が傾く頃に、お気に入りのクッションから顔を上げて大きく欠伸をする。秋が終わり、すっかり冬の装いになってしまった福袋商店街は、猫のリリックにはとても居心地が悪い。もふもふの毛皮を羽織っていても、足はぷにっとした肉球が裸のまま地面に当たるし、そもそもこの毛皮は生まれつきのものであって、防寒用に用意したものではないのだ。「リリックはいつでも暖かそうね」なんて、ズレた感想そのものでしかない。
 まったく、どうして人間っていうのは猫を下に見るのかしらね。
 そんじょそこらの人間よりも多くこの世界を生きているリリックは、呆れるように呟きながらもう一度欠伸をした。真冬の福袋商店街は生き辛くても、はんせい堂の中は居心地が良い。暖かい毛布にくるまりながら温まれるコタツは天国のようで、猫離れしたリリックも、思わず普通の猫のように恍惚の表情を浮かべてしまうのだ。

「リリックちゃん、ちょっと配達に行ってくるから、お留守番お願いね。ネット部にはしおりがいるから、お腹空いたらしおりに言ってちょうだい」

 伝わっていると思っているのか、いないのか。この家の主である野辺留文句治(通称「もくじぃ」)は、古い歌謡曲を口ずさみながら玄関を出て行った。あとに残ったリリックは、毛繕いをしながら、体を伸ばしてクッションに頭を擦りつける。
 この家も、だいぶ広くなったわねぇ。
 ガランとした部屋を見つめて、リリックはぽつりと心の中で呟いた。しがない老人と世間知らずの孫娘が営むこのはんせい堂は、二人と一匹が住むには相応の大きさだった。それでも広く感じてしまうのは、この間まで、無駄に背が高く髪型も大きかったあの青年がいたからだろう。
 青年って言うには、人間にしては年を食いすぎてるのかしら。
 そう思いながらも、リリックにとって人間世界での価値観なんてどうでも良かった。人間は平和を願うくせに、どうも小さなことにこだわり続ける。リリックは尻尾をソファーに叩きつけながら、不機嫌そうに目を瞑った。さっきまで寝ていたのに、まだ寝足りない。猫の平均睡眠時間は、約十四時間だ。あと数時間寝ていても、猫の世界では何ら問題はない。
もう一度眠りにつこうと丸まるリリックの耳に、しおりの叫び声が聞こえた。「まただわ」とか「まだだわ」とか、訳のわからないことを呟いている。
 どうせ、傑作のことだろうと思うけど。
 リリックは目を瞑りながら、唯一自分と話せた傑作のことを思い出した。いつも笑顔で、鈍くさくて、つい世話を焼きたくなってしまうあの男は、リリックのお気に入りだ。夢を叶えるために長いことはんせい堂で働いていたが、最近、ついにその夢を叶えて、ここを出て行ってしまった。はじめは寂しがっていたもくじぃやしおりも、今は以前のような元気を取り戻している。
 特に、あの小娘よね。
 未だにぶつぶつと独り言を言うしおりの方をチラリと見て、リリックはふんと顎を挙げた。しおりが傑作のことを好いていることを、リリックは知っている。そして、そのずっと前から、傑作がしおりを想っていたことも。しおりはそんなことを露ほども思っていないだろうが、猫はなんでも知っているのだ。特に、人の言葉が話せるリリックは。
 リリックはごろりと寝返りを打って、それから器用に後ろ足を顔の横に持ってきた。寝ようとすればするほど、二人のことが頭に浮かんでくる。あれは確か、傑作がCDデビューをする前のことだ。落ち込み気味の傑作の手を、しおりが願いをかけるように握っていた。しばらくその光景を見守っていたリリックだったが、あまりに甘い雰囲気に音を上げてしまって、邪魔するように鳴き声を出したのだ。その時の傑作の慌てようは、今思い出しても笑えてしまう。
 傑作はあんなにわかりやすいのに、どうしてあの子は気づかないのかしら。
 人間には便利な「言葉」という道具があるのに、猫よりも気持ちが伝わりにくい。表情だって、他のどんな動物よりも豊かだ。それにはきっと、猫のリリックには到底理解できない複雑な事情があるのだろうけれど、やっぱりリリックは猫だから、それを考えようともしなかった。今はそんなことよりも、温かなこの部屋で眠りにつきたい。
 再びリリックが目を覚ますと、日はとっくに暮れて夜になっていた。もくじぃもいつの間にか帰っていて、布団を敷きながら寝る準備を整えている。
 でも、決して寝過ごしてなんかいないわ。猫は夜行性の生き物なのよ。
 寝てばかりいられて羨ましいというようなもくじぃの視線に尻尾で返事をして、リリックは餌箱に入れられたキャットフードを食べ始めた。夜行性と雖も、決まった時間にご飯を食べていないから、ついつい平均よりも重い体重になってしまう。
 あーあ、こんな真冬だけど、そろそろジョギングを始めないとかしら。
 餌箱を空にしたリリックは、窓の外を見てため息をついた。外は真冬だ。雪は降っていなくても、霜が降りているかもしれない。悩んだリリックは、走るのをやめて、かわりに新たな寝床を探し求めた。もくじぃのふかふか布団も良いが、しおりのベッドも捨てがたい。とりあえず様子を見ようとしおりの部屋を覗くと、しおりは枕に顔を埋めて何やら気味の悪い笑い声を出していた。
 とうとうおかしくなっちゃったのかしら。
見慣れないしおりの様子に恐怖を抱きながら、リリックはドアの隙間からしおりを観察し続けた。えへへへへ、と間抜けた笑い声に混じって、「好き」だとか「傑作くん」だとかいう言葉が聞こえる。
 恋をすると皆一様に愚かになるっていうけれど、あれは行き過ぎじゃないの?
 ごろごろとベッドを転げ回るしおりに向かって、リリックはヒゲを垂らす。けれど、すぐに若い頃の自分を思い出して、懐かしい気持ちになった。猫と雖も、リリックだってひとりの女だ。たまには好いた男を想いながら、頬を緩ませた夜だってある。
 まぁ、若いって良いわよね。何事も。
 こんなしおりの傍では眠れないと、リリックは来た道を引き返そうとする。
 そのときだった。突然しおりの笑い声がやみ、部屋が不気味な静粛に包まれたのだ。不思議に思ったリリックがまた部屋を覗くと、スマートフォンを見つめたしおりが、顔面蒼白という様子でベッドに倒れ込んでいた。
 傑作のやつ、何か変なことでもしたのかしら。
 心配に思って鳴き声を上げたリリックは、すぐにそのことを後悔した。リリックの姿を見つけて泣き出したしおりは、叫びながらリリックを両腕で抱きしめてきたのだ。しおりの在るのか無いのかわからない胸が鼻先に当たり、背中が押しつぶされて息苦しい。それでも、悲劇に泣き叫ぶしおりの腕を解くことは、猫のリリックには無理だった。力任せに引っ掻くこともできるが、恋する乙女経験者としては、しおりに同情する面もある。
 これは、今度傑作が帰ってきたら、懲らしめてやらないとね。
 情けない人間たちのせいで、穏やかであったはずのリリックの夜は、息苦しいものになってしまった。頭の中で暢気に笑う傑作を思い描いて、リリックは尻尾を膨らませる。リリックの長い夜は、しおりが泣き疲れて眠りに落ちるまで続いた。



 翌朝、もくじぃの布団の上で目が覚めたリリックは、カーテンの隙間から見える青空に眩しそうに目を細めた。今までも晴れてはいたが、こんなに澄み渡った青空は久しぶりだ。
今日なら、気持ちよくジョギングが出来るかも。
 猫にしてはめずらしく早起きをしたリリックは、すやすやと寝息をたてるもくじぃの体を踏みつけながら部屋を出た。階段を降りて腹ごしらえをすると、ぐいっと背中を伸ばす。
 あら?あの子……。
 上機嫌で家を出ようと玄関へ向かうと、そこには先客がいた。慌てた様子で靴を履いているしおりの顔は、期待に縋りつくように真剣だ。駆け足で出て行ったしおりを見送って、リリックは尻尾をゆらりと左右に振る。
 帰ってきたら、あの顔は、笑っているのか、泣いているのか。
しおりの涙の訳を知っているリリックは、一縷の期待を抱きながら、玄関の扉をそうっと開けた。
 そんな朝の光景を思い出して、リリックはベランダでギターを爪弾く傑作の横に座る。穏やな表情には、しおりとの関係が上手くいったことが暗示されていた。
 傑作よりも、しおりの方がわかりやすかったけれど。
 帰ってきてからずっと上機嫌でいるしおりを思い浮かべて、リリックはしょうがないわね、というようにため息をついた。恋する乙女は皆単純だ。すぐに落ち込むし、すぐに舞い上がってしまう。

「ずいぶんと幸せそうね、傑作」

 リリックは手摺りに手を掛けながら、頬杖をついて傑作を見つめた。リリックと目を合わせた傑作が、照れくさそうに笑う。

「そうかな?」
「ええ。仕事が順調なのね。それとも、他に何か良いことがあったのかしら?」

 わざと事情を知らない振りをしたリリックに、傑作は短く笑いながら夜空を見上げた。昼間の青空と同様に広く澄み渡った空には、無数の星が浮かんでいる。そのひとつひとつを眺めるようにして、傑作は緩やかなアルペジオを奏でた。十二フレットの優しい音色が、静かな街に響く。

「大切な人とね、やっと気持ちが通じ合ったんだ」
「ふうん。それってしおりの事?」
「ええ!?」

 穏やかだったアルペジオが、途端に聞き辛いフォルテシモに変化した。秘密がバレたかのように微妙な表情をする傑作は、しおりと手を握り合っていたのが見つかったあの日のように、肩を竦めている。

「ぼく、そんなにわかりやすかったかな?」
「もくじぃは気づいていないんじゃない?でも、私をあの人と一緒にしてもらっちゃ困るわよ。猫はなーんでも知ってるんだから」

 うにゃん、と可愛らしく尻尾を揺らしながら首を傾げると、傑作は降参したように眉を下げて、再びギターを弾き始めた。

「リリックに隠し事はできないね」
「当然よ。私を誰だと思ってるの?」
「あはは、そうでした。リリックさん」

 朗らかに笑う傑作に、リリックは懐かしい気持ちに胸を浸した。傑作が夢を叶えてからはなくなってしまった、リリックの一番大好きだった時間。またこうやって傑作と話せることが、楽しくて仕方なかった。猫にだって、大切な人がいるのだ。しおりのように恋人にはなれないが、傑作を想う気持ちは、誰にも負けるつもりはない。

「まあ、せいぜい上手くやることね。あまりほったらかしにすると、あの年頃の女の子はすぐに他に行っちゃうわよ」
「肝に銘じておきます」
「ふふ……。少し余裕のあるところを見ると、もうキスぐらいは済ませたのかしら?」

 バチン。
 不愉快な音を立てて、ギターの弦が勢いよく切れた。あからさまに動揺する傑作を見て、リリックは驚いたように目を丸くする。

「あら、女心のわからない鈍いヤツだと思ってたけど、意外とやるじゃない」
「ま、まあ……なんていうか、その……」
「そんなに照れなくてもいいじゃない?男らしい傑作が見られて、私も嬉しいわ」

 感心した目で自分を見つめるリリックに、傑作は気まずそうに目を逸らした。もし、二人のファーストキスを女の子であるしおりから奪われたのだと知ったら、リリックはどんな感想をもらすのだろう。想像しただけで身震いがする。

「大切にしてやんなさいよね。あの子が傷ついて、とばっちりを受けるのは私なんだから」
「わかってるよ。もう、泣かせたりしない」

 切れた弦を処理しながら真剣な目で呟く傑作に、リリックは満足したように頷いた。もくじぃも、しおりも、傑作も、情けないように見えて、いつかはリリックの手を離れていくのだ。猫はなんでも知っているけれど、その猫が出来ることは、人間世界では限られているのかもしれない。それでも、彼らが本当の大人になるまで見守ることができれば、リリックは猫として、充分すぎる功績を残したことになる。

「傑作くーん!お風呂湧いたわよー!」

 一階から届くしおりの声を合図に、リリックは手摺りから部屋の中に飛び降りた。立ち上がった傑作の足に擦り寄って、にゃおんと甘えた声を出す。

「リリックも、一緒にお風呂に入る?」

 ご機嫌だったリリックの尻尾は、傑作の言葉に太く逆立つ。レディーをお風呂に誘うなんて、なんてデリカシーのないヤツなんだろう。それに、リリックは猫なのだ。水は熱いのも冷たいのも好きではない。

「入らないわよ。傑作のおバカさん」

 しゅるんと傑作の足の間から抜けて、リリックは猫らしく足音を消しながら夜の街に消えた。猫はなんでも知っている。それ故に、彼らが愛おしくて仕方ない。不器用で、鈍感で、優しい人間たちに囲まれながら、リリックは夜を駆けていく。ご自慢の尻尾をしなやかに揺らしながら、満月の光に、リリックの影が細く伸びていった。