フランボワーズ・ショコラティエ

 四角いもの、丸いもの、ハート型のもの。ページを捲る度に、様々な形のチョコレートが目に飛び込んでくる。昼ご飯を食べ終えて口寂しい自分には、まさに甘い誘惑だ。時計を見ると、ちょうど午後三時を指している。このまま本の中に手を入れて、色とりどりのチョコレートを食べてしまいたい。そんな叶わぬ想像をしながら、何も入っていない口の中で、舌を上下に動かした。

「何の本読んでるの?傑作くん」

 頭の中で甘いチョコレートを食べる妄想をしていると、鈴の音のような声がぼくの名前を呼んだ。その声に視線を下げて、しおりちゃんの方を向く。円らな目をこちらに向けたしおりちゃんは、机の向こうから、興味深そうに本の表紙を覗き込んでいた。

「世界のチョコレート図鑑……へぇ、こんな本があるのね」
「うん。もうすぐバレンタンだから、もくじぃに言ってチョコレートの本を仕入れてみたんだよ。これは、その中にあった本」
「もうそんな時期かぁ。最近まで年末やお正月の準備で忙しかったのに、日本は行事が多くて大変ね」

 しおりちゃんは肩を竦めながら、それでも楽しそうにぼくの隣に座ってきた。その動きに合わせて、持っていた本をしおりちゃんの方に傾け、一緒にチョコレートの写真を眺める。
本はスタンダードなミルクチョコレートから、見てるだけで甘い気分になる、苺チョコレートのページに変わっていた。苺をホワイトチョコレートで包んであったり、ピンク色のケーキが並んでいたり、とにかく見とれてしまう。それはしおりちゃんも同じだったようで、ページを捲る度に、切なさそうに感嘆のため息を漏らしていた。

「綺麗……チョコレートっていうよりも、お菓子の宝石みたいね。食べるのがもったいないわ」
「うーん。でもぼくは、やっぱり食べたくなっちゃうなぁ」
「ふふ、傑作くんらしい。でも、この本素敵ね。たくさんのチョコレートが載っていて、甘い香りまでしてきそう」

 しおりちゃんはそう呟いて、本に鼻先を近づけて目を瞑った。苺の香りを嗅ぐように笑みを浮かべている姿が楽しそうで、ぼくもそれを真似てみる。瞼を閉じて数回息を吸うと、ふいに甘い香りが漂ってきた。まさか本当に本から匂いがしたのかと、慌てて目を開けて写真をじっと見つめる。鼻孔を広げ、注意して匂いを辿ると、甘い香りは写真を飛び出して、隣にいるしおりちゃんの方から流れていた。

「どうしたの?傑作くん」
「あ……しおりちゃんから、チョコレートの匂いがしたから」
「チョコレート?」

 しおりちゃんは可愛らしく小首を傾げて、顎に人差し指を当てて視線を上に動かした。その間も、本の中に迷い込んだかのように、辺りに甘い香りが広がっていく。

「ああ、それなら、きっとこれの匂いだわ!」

 しばらく考え込んだあと、しおりちゃんは両手を合わせてポケットの中に手を突っ込んだ。手の平に乗った小さな物体を、匂いの元を辿るように覗き込む。

「何?これ」
「リップクリームよ。この前薬局に行ったら、冬季限定の香りだっていうから、思わず買っちゃったの。自分ではよくわからなかったけど、そんなに香るものだったのね、これ」

 しおりちゃんはリップクリームを指先で転がしながら、感心するように唇を尖らした。その唇を見つめながら、本の中のチョコレートを思い出す。さっきまで嗅いでいた甘い匂いは、しおりちゃんの唇からしてきたものなのか。そう考えると、何というか、自分がとてもいやらしいことをしていたように思えて、ついしおりちゃんから顔を逸らしてしまう。当のしおりちゃんはそんなこと全く気にしていないみたいで、また本に顔を近づけて、チョコレートの写真を眺めていた。

「チョコレートもたくさん種類があるのね~。傑作くんは、この中だったら、どれが好み?」
「え?」
「苺チョコよ。いつも普通のミルクチョコだったから、今年は違うのに挑戦してみようかなーって。傑作くんにもバレンタインあげるから、リクエストがあったら教えてよ」

 無邪気に話すしおりちゃんに合わせて、甘い香りのする唇が柔らかく動く。その動きに、甘い香りとさっきまで見ていたチョコレートの写真が重なって、思わずごくりと唾を飲んだ。バレンタインの苺チョコ、そのピンク色の唇が欲しいと言ったら、しおりちゃんはどんな顔をするだろうか。

「って!!ぼくったら何を考えているんだ!!」
「わあ!傑作くんったら、急に大きな声出さないでよ」
「あ、ご、ごめん。ちょっと、チョコのことで頭がいっぱいになっちゃって」

 辺りに漂う甘い香りを払拭するために、必死に頭を振って空気を吹き飛ばした。しおりちゃんは不思議そうな顔をしながら、それでもぼくから離れなくて、首を曲げて左右に動くぼくの顔を見つめている。その視線に耐えられず、大きく深呼吸をして、自分の中に浮かんだ不埒な妄想を消そうと、眉間に皺を寄せてしおりちゃんから目を逸らした。嫌な鼓動が、耳の傍で聞こえてくる。

「知らなかった。傑作くんって、そんなにチョコレートが好きだったのね」
「ま、まあね」

 なんとか誤魔化せたと、季節に似合わない汗を拭って、長い息を吐いた。しおりちゃんはぼくの様子なんて気にも留めず、本を捲りながら色とりどりのチョコレートを指で辿っている。そしてまたぼくの顔を見上げると、唇をにっこり釣り上げて、満面の笑みで口を開いた。

「わかった。じゃあ今年は、腕によりをかけて美味しいチョコを作るわね。今から練習しておくから、楽しみにしてて!」

 しおりちゃんはそう言うと、意気込むように腕を曲げながら、レシピを探しにネット部へと消えてしまった。それと同時に、甘い香りもいなくなる。
 名残惜しさを感じながら、頭を冷やすために、本を閉じて机に顔を突っ伏した。リップクリームの香りごときで翻弄されるなんて、ぼくもどうかしている。目を閉じると、色とりどりのチョコレートに混じって、ぷっくりとしたピンクの唇が浮かんできた。頭を冷やすどころか、このまま妄想の海に沈んでしまいそうだ。
 叶わない感触を思い浮かべながら、指先を唇に押し当てる。あのチョコレートは、きっとこんな指の腹じゃ代わりにもならない、触れたらすぐに溶けてしまいそうなほど、柔い感触なんだろう。
 ため息をついて、八つ当たりをするように本の表紙を叩く。それもこれも、全部チョコレートが悪いんだ。唸るように唇を噛みしめると、途端に自分が惨めになった。これからしおりちゃんに、どんな顔をして会えばいいんだろう。そんな歯痒さに襲われながら、妄想の中の苺チョコレートを、口いっぱいに頬張る。ピンク色のチョコレートは、甘美な香りを漂わせながら、笑い声と共に、ぼくの腕をすり抜けていった。