ダスティンホフマンになれなかったよ

 こんな日が来ることは、薄々感づいていた。ぼくたちはいい大人だし、いつまでもはんせい堂で気ままに暮らしていけるわけじゃないって、わかっていた。それでも、ぼくにとってあの場所は居心地が良かったし、少なくとも自分から壊すことはないと思っていた。思っていたけれど、時間は嫌でも進んでいく。ずっと同じままでなんて、いられるわけがない。
 金色の重たいドアノブを掴んで、大きく深呼吸をした。待合室から離れたこの場所は、さっきまでの喧騒が嘘のように静かだ。廊下に流れていたBGMが、微かに聞こえてくる。これは確か、ショパンが作ったピアノの曲だ。人差し指でしかピアノが弾けないぼくには、最後まで演奏できなかったけれど。
 重たいドアノブを押すと、真っ白な壁と床が目に入った。左手に、全身が映る大きな鏡もある。部屋の眩しさにたじろいでいると、中から聞き慣れた声がぼくの名前を呼んだ。その声を聞いて、びくりと肩が強ばる。

「傑作くん、来てくれたんだ」

 白いウェディングドレスに包まれたしおりちゃんは、今まで見たことのないくらいに綺麗だった。お気に入りの赤いリボンも、今日は白いベールに変わっている。ごくりと唾を飲み込んで、いけないとわかっていながらも、その姿に見とれてしまった。この世に天使がいるとするならば、きっとこんな容姿をしているのだろう。

「来るに決まってるよ。今日は結婚式なんだから」

 微笑むしおりちゃんに、思わず「綺麗だね」と伝えてしまった。まるで新郎が言うような褒め言葉だけれど、今のぼくはタキシードを来ていない。どこにでもあるようなスーツに、少し色のついたシャツを着ているだけだ。こんな綺麗な花嫁の隣に、立てるはずがない。
 そんなぼくの気持ちを知ってか知らずか、しおりちゃんは相変わらず柔らかい微笑みを浮かべていた。それは、これから人生の門出を祝おうとしているしおりちゃんに、ぴったりの表情だった。なのに、なぜだろう。どこか笑顔がぎこちない。見慣れているはずのしおりちゃんの笑顔が、遠く感じる。

「結婚おめでとう、しおりちゃん」
「ありがとう。なんだか不思議ね。こうしてウェディングドレス姿で、傑作くんの前に立つなんて」

 白いドレスを指先で摘まんで、しおりちゃんはひらひらと振ってみせる。唇を尖らせたしおりちゃんは、なんだか照れくさそうだった。耳朶に付いている真珠のイヤリングが、しおりちゃんの動きに合わせてゆらゆらと揺れる。その動きを見つめていると、ふいにしおりちゃんの動きが止まった。

「ずっと、夢だったの。白いウェディングドレスを着て、素敵な人と結婚式をするのが」

 静かな部屋に、しおりちゃんの声がぽつりと落とされた。声は床に落ちたまま、辺りに広がることもなく、ひっそりと消えていった。イヤリングだけが、取り残されたように耳元で揺れている。

「うん、知ってるよ。しおりちゃん、よく言ってたから」
「でも、どうしてかしら。想像してたより、嬉しくないの。花嫁さんって、幸せで幸せで仕方がなくて、自然と笑顔になっちゃうものだと思ってたのに」

 イヤリングの動きも止まって、辺りが静粛に包まれる。扉の向こうから、ピアノの音色が聞こえてきた。もう、何の曲を弾いているのか、わからない。

「マリッジブルーってやつじゃないの?心配することないよ。これから結婚式が始まれば、自然と笑顔になるだろうから」

 言いながら、自分の声が震えていることに気がついた。微かに芽生えた期待を抑えようと、無理矢理頬を釣り上げる。こんな日が来ることを、ぼくは知っていた。あの日常を壊すのがしおりちゃんだとは思わなかったけれど、よく考えてみれば当たり前のことだ。これはしおりちゃんの夢だったし、ぼくもそれを応援していた。だから、素直にお祝いしなくちゃいけない。今のしおりちゃんの前で、ぼくの本当の気持ちなんて、邪魔者以外の何者でもない。

「マリッジブルー、か」

 しおりちゃんが小さく呟いて、そしてぼくを見上げた。吸い込まれるように見つめられて、釣り上げていたはずの頬が真顔に戻りそうになる。曖昧な表情のまま固まっていると、しおりちゃんの手が、ぼくの右手を握った。レースのグローブ越しに、しおりちゃんの震えが伝わる。抑えていた期待が、心音と共に、顔に表れていった。唇を噛みしめるぼくに、しおりちゃんが瞼を細める。

「けっさくくん」

 か細い、音を聞き取るのがやっと、という声だった。ぼくを見つめる双眼が、徐々に潤っていく。桃色の唇が震えて、綺麗だ、と思った。このまま手を引いて腕に収めてしまえれば、どれほど楽になるだろう。

「あのね、傑作くん。あたし、ずっと傑作くんのこと……」
「だめだよ、しおりちゃん」

 考えるより先に、言葉が口を衝いて出た。しおりちゃんの手の震えが、ピタリと止まる。

「だめだよ。君は今日、結婚するんだから」

 優しく、できるだけ優しく微笑んで、しおりちゃんの手をそっと離した。潤んでいた瞳が、期待を裏切られたかのように睫に隠れる。

「……ずるいのね、傑作くんは。最後まで、言わせてくれないなんて」

 目を逸らしたしおりちゃんは、今にも泣き出してしまいそうだった。でも、これでいい。こうなるまでに、いくつもチャンスはあったはずだ。それなのに、何もしなかったのは、他でもないぼく自身。二人の関係を壊すのが怖くて、自分の気持ちに気づきながらも、それを伝えることができなかった。そんなぼくに、しおりちゃんが言おうとしていた言葉を聞く資格はない。

「幸せになってね、しおりちゃん」

 しおりちゃんが選んだ人なら、きっと上手くいくよ。
そう心の中で付け足して、目が合う前にしおりちゃんに背中を向けた。新郎が帰ってくる前に、ここを出なければならない。ぼくはしおりちゃんの幸せを壊したくないし、しおりちゃんの願いを受け止める力もない。ダスティンホフマンのように、全てを投げ捨てて君を迎えにいける勇気があれば、今頃、違った未来が待っていたのだろうか。
 扉を閉めると、ピアノの音色に合わせて、涙が一筋、頬を伝った。結婚式には似合わない、別れの曲が流れている。
 きっと、ぼくの耳にだけ、聞こえているんだろうな。
 人差し指だけで奏でられた、たどたどしいオモチャの音色。その音が嗚咽を掻き消してくれているうちに、天井を見上げて唇を噛んだ。もう、あの日に帰ることはない。はんせい堂を出て行く後ろ姿を思い浮かべながら、さよなら、と小さく呟く。最後に残ったしおりちゃんの手の温もりは、冷たい涙に流されて、消えていった。