猫じゃらしに乾杯

 ここのところ、傑作くんと、碌に会話をしていない。
デスクに重ねられた書類は山積みで、メールボックスの中には、まだ処理しきれていない注文が、両手で数え切れないほど残っていた。日々はんせい堂ネット部、満員御礼の大繁盛中。なんて言えば聞こえは良いけれど、働いているのがあたし一人じゃ、嬉しいよりも忙しいの方が先に来てしまう。
 「ぼくにも、何か手伝えることはある?」なんて、優しい傑作くんはあたしに気を遣ってくれた。その気持ちはありがたいけれど、機械音痴の傑作くんに頼めることなんて、在庫の確認や伝票の整理くらいだ。それも、あたしの仕事が一段落しなければ出来ないことばかり。心配してくれる傑作くんには悪いけれど、手伝ってもらえることは何もなかった。
 そんなことが続いたからだろうか。傑作くんは、前のようにネット部に顔を出すことも少なくなり、極力あたしの仕事を邪魔しないようにしているのか、声も掛けてくれなくなった。毎日残業と早朝勤務を繰り返しているあたしに、コーヒーを差し入れてくれたり、ブランケットを渡してくれたりはするけれど、会話はほとんどない。せっかく彼氏とひとつ屋根の下で暮らしているというのに、これじゃあすれ違いもいいところだ。いっその事、離れて暮らしていた方が、空しさが半減していたかもしれない。

「傑作くん……」

 改めて傑作くんと話していないことを実感すると、無性に彼のことが恋しくなった。優しい笑顔に、あたしの名前を呼ぶ柔らかい声。抱きついたときに感じる体温と、鼻孔に広がるお日様の匂い。そんなに昔の記憶ではないのに、まるで幼い頃の思い出のように、傑作くんの姿が目の前に広がっていく。
 こうなってしまったら、我慢の限界だ。未だ半分も片付いていない仕事を放り出して、小走りで古書部へと向かう。大勢の客で賑わうネット部とは反対に、古書部は今日も閑古鳥が鳴いていた。

「傑作くん!」

 名前を呼んで、思いきり抱きついて、そして優しく撫でてほしかった。それなのに、目の前の傑作くんの腕にはリリックがいて、今にも飛びつこうとしていたあたしの動きを阻止する。中途半端な姿勢で固まっていたあたしを、傑作くんは暢気な顔で振り返った。

「しおりちゃん。仕事、一段落ついたの?」

 ううん。それがね、なかなか終わらないの。どんなに頑張っても、注文のメールが引っ切りなしに届いて……。ねぇ、もう、嫌になっちゃった。少しくらい逃げ出したっていいでしょう?ちょっとでいいから。五分だけでいいから、思いきり甘えさせて。あたし、傑作くんと話せなさすぎて、おかしくなっちゃったよ。
 言いたいことはたくさんあるのに、あたしの唇は、閉じたまま開こうとしなかった。無言で傑作くんに近寄って、リリックを抱いたままあたしを見つめる顔に、じっと視線を合わせた。眉間に皺が寄って、お世辞にも可愛いとは言えない表情になっていく。

「ぜんっぜん。後から後からメールが届いて、一段落どころじゃないわ」
「そっか……。大変だね。でも、張り詰めすぎもよくないから、少し休憩したらどうかな?」
「そんな時間があったら、こんなに忙しくはないわよ。――あーあ、リリックはいいなぁ。毎日食べて眠るだけ。あたしも猫になれたら、こんなに忙しい思いをしなくて済むのに」

 何も考えず、ただひたすらに傑作くんに甘えられているリリックが羨ましくて、ついそんなことを言ってしまう。リリックにあたしの言葉が通じるはずはないのに、リリックは少し怒ったような鳴き声を出して、それから傑作くんに頬擦りをした。見せつけるような態度に、歪んでいた表情がますます険しくなる。

「そんなことないよ。猫だって、いろいろ大変だと思うよ。な、リリック」

 自分に擦り寄るリリックの肩を持つように、傑作くんはリリックを抱え直して、その頭を優しく撫でた。それが、まるで仲の良い恋人同士の動作のように思えて、胸の中心が凍えるように鋭くなる。二人の世界を邪魔するな、とでも言うように、リリックが傑作くんの肩の上に乗って、あたしに背中を向ける。上下に激しく揺れる尻尾が、あたしを馬鹿にしているようだった。

「……なによ、傑作くんまで、そんなこと」
「しおりちゃん?」
「もういい!!傑作くんは、ずーっとリリックと遊んでいればいいじゃない!あたしの忙しさなんて、永遠にわからなくていいわよ!!」

 バタン!と古書部の扉を閉めて、急いでネット部のドアに鍵を掛けた。ドアの向こうで、傑作くんがあたしを呼ぶ声がしたけれど、わざと耳を塞いで、聞こえない振りをする。やがて、その声も止むと、途端に自責の念が溢れてきた。いくら忙しくてイライラしていたからと言って、あれじゃあただの八つ当たりだ。しかも、嫉妬の相手は猫のリリック。人間ならまだしも、猫に嫉妬するなんて、あたしも相当キテるらしい。

「あー……傑作くんに、ちゃんと謝らないと」

 とは言え、理不尽に怒ってしまった自分が恥ずかしいのと、仕事が片付かないのとが重なって、なかなか傑作くんの元へ行く機会がなかった。夕飯の時に謝ろうにも、もくじぃが傍にいると、なんとなく素直になれない。あたしがまだ怒っていると思っているのか、傑作くんは、一度もあたしに話しかけようとはしなかった。それが悲しくて、数時間前の自分を、思いきり糾弾したくなる。
 そのままズルズルと時間は経って、気づけば時計の針が天辺に近くなっていた。このまま放っておけば、余計に謝りにくくなってしまう。意を決して自分の部屋を飛び出して、傑作くんの部屋のドアを叩いた。はーいと間延びした返事に深呼吸をしながら、ドアノブに手を掛ける。

「傑作くん。ちょっと話があるの」

 目が合ったら、開口一番に謝らなくちゃ。そう思っていたのに、またもやリリックが邪魔をする。一緒に眠るつもりだったのだろうか。傑作くんの膝の上に乗るリリックは、気持ちよさそうに丸まっていた。その背中に優しく手を添えられているのを見て、凍えた胸が、また硬さを取り戻していく。

「しおりちゃん?」
「もぉ……やだぁ……」

 気がつくと、唇の周りの筋肉がふやけて、顔中の組織が下を向いていた。子供のように泣きじゃくる口からは嗚咽が漏れて、両目からは涙が溢れてくる。

「え?ええ?し、しおりちゃん!どうしたの!?」
「もう、やだ。こんなの、耐えられない。あたしだって、傑作くんに、思いきり甘えたいのに」

 あたしの涙に驚いたのか、傑作くんが立ち上がって、その拍子にリリックが布団の上に落ちる。慌てて近づいてきた傑作くんに抱きついて、ぐしゃぐしゃの顔をパジャマに押しつけた。呼吸の間に、ズズっと鼻水の不細工な音がする。口の中に涙が入って、舌の上がしょっぱくなった。

「もうやだ。こんな生活。あたしも猫になる!傑作くんの飼い猫になる!!」
「えええ!!?しおりちゃん、何言ってるの!?」
「やだやだ!もう決めたの!あたしも猫になって、傑作くんに抱っこしてもらったり、一緒に寝たりするの!だから、もう離さないで!リリックだけじゃなくて、あたしの事もかまってよぉ!!」

 額を押しつけながらしがみつくと、傑作くんは、困惑したように呻き声を上げた。間抜けなあたしたちの足下で、リリックが大きな欠伸をする。相変わらず猫は暢気でいいな、なんて思っていたら、空気を読んだのか、背伸びをしながら、部屋を出て行った。直前に上げられた短い鳴き声に、傑作くんが上擦った声を上げる。

「ちょっ!!リリック!違うって!!」
「……傑作くん?」
「あ、いや、その……」

 しどろもどろになる傑作くんは、しばらく悩んだあと、そっと優しくあたしの背中に手を回してくれた。久しぶりに感じた体温に、凍っていた心がほぐれていく。そんなあたしの感情を読み取ったのか、傑作くんは、パジャマの袖であたしの頬を拭って、ゆっくりと顔を近づけてきた。待ち望んでいた眼差しが、あたしを射貫く。

「ごめんね、しおりちゃん。忙しくて大変だったのに、支えてあげられなくて」
「ううん。傑作くんは悪くないの。全部あたしがわがままだったから……」
「しおりちゃんのせいじゃないよ。仕事の邪魔しちゃいけないって、あまり話しかけないようにしていたけど……それじゃあストレス溜まっちゃうよな。ごめん。これからは、もっとしおりちゃんの力になれるよう、頑張るから」

 傑作くんが優しく微笑んで、 しゃっくりが止まらなくなっているあたしの背中を、優しく叩いた。そのリズムに、興奮していた気持ちが落ち着いていって、呼吸が楽になっていく。体重を預けるようにもたれかかると、傑作くんは、何も言わずに支えてくれた。あんなに理不尽な怒り方をしたのに、簡単にあたしを許してしまえる傑作くんは、やっぱり太陽のような人だな、と思う。涙で濡れたパジャマの向こうにも、いつもの優しいお日様の香りがした。

「傑作くん。ごめんね、ありがとう」
「どういたしまして。少しは落ち着いた?」
「うん。もう大丈夫……」

 そう言いながらも、身体は傑作くんから離れたくなくて、つい腕の力を強めてしまう。そんなあたしを抱きしめながら、傑作くんは、ゆっくりと口を開いた。

「……あのさ。しおりちゃん」
「なに?」
「さっき、猫になりたいって言っただろ?ぼくの飼い猫になりたいって」

 尋ねられた言葉に、数分前の自分を思い出して赤面する。いくらリリックに嫉妬していたからといって、あたしはなんてことを口にしてしまったんだろう。呆れているであろう傑作くんに弁解するために、胸に埋めていた顔を、慌てて上に向けた。

「あ、あれはね!違うの!ちょっと、いっぱいいっぱいになっちゃって――」
「しおりちゃんがぼくの飼い猫になるのは、一向に構わないんだけどさ」
「え?」
「ぼくとしては、久しぶりだし、いろいろ手加減出来ないんだけど……大丈夫?」

 近づいてきた傑作くんの目が、獲物を狙う猫のように妖しく光る。喉を撫でるように添えられた手に、傑作くんの言う“猫”があたしの考えていた“猫”と違うと気づいた頃には、あたしはもう、傑作くんから逃げられなくなっていた。