ねこの森には帰れない

 子供の頃に、よく遊んだ場所がある。お気に入りの花を見つけた原っぱに、日が暮れるまで遊び呆けた公園。だけど、あたしはもう、あの場所にはいけない。あんなに時間を忘れるまで遊んで、毎日通った場所なのに、どこにあるのか、覚えていないのだ。自転車にも乗れないくらいに小さかった頃のこと、そんなに家から離れていないはずなのに、どんなに辺りを探しても、あの場所にはもうたどり着けない。絵本の中や、テレビで見た光景を、自分の記憶と勘違いしたのか。それにしては、鮮明すぎる瞼の裏に貼り付いた映像を見つめながら、あたしは長いため息を吐く。名前も忘れてしまったあの場所に、あたしは「ねこの森」と名前を付けた。子供にだけ神様が教えてくれる、大人の知らない特別な遊び場。何も知らない少女だったからこそたどり着けた、遠い遠いねこの森。

「みゃおん」

 珍しく自分から擦り寄ってきたリリックの身体を撫でて、膝に乗った頭に軽く手を添える。何度読んでも飽きない絵本の中には、今のあたしと同じ、少女時代を振り返る女の子の姿があった。ねこの森から届いた手紙を見つめながら、恋人と手を繋いで、人混みの中を歩いていく。ねこの森の事も忘れ、大勢の中の一人となってしまった女の子は、それでも満ち足りた表情をしていた。絵本の最後のページには、女の子と恋人の後ろ姿だけで、顔なんて描かれていないのに、あたしにはそれがはっきりとわかった。それには、もしかしたら自分自身の願望も含まれているのかもしれない。

「リリックも、ねこの森に居たことがあるの?」

 伝わらないとわかっていながらも、僅かな期待を抱いて、隣で丸まるリリックに話しかける。当たり前だけれど、リリックは返事もせずに、ただ尻尾を上下に振るだけだった。

「ねこの森……あたしももう、帰ることは出来ないだろうなぁ」

 朝から晩まで遊び回って、願いさえすれば、どんなことも叶うと思っていたあの頃。お姫様やスーパーヒーローにだってなることが出来て、自分は他とは違う、特別な存在だと信じていたあの日々。ねこの森を飛び出して、夢から覚めてしまえば、あたしはまた、人混みの中に隠れてしまう。誰もあたしを見つけることは出来ない。現実を覚えた少女は、二度とねこの森に帰ることはない。
 それでも、あたしはねこの森を飛び出したことを後悔することはないだろう。二度と戻れない時を惜しみながらも、あたしは前に進んでいる。大人になって、自分の限界を知って、それでもあたしなりに、幸せを掴んで生きている。

「しおりちゃん。またその絵本読んでるの?」

 リリックのミルクを片手に、サロンの扉を開けた傑作くんに黙って微笑みを返す。例えいつか、ねこの森から手紙が届いたとしても、あたしもこの絵本の少女のように、人混みの中に帰ることを選ぶのだろう。ねこの森がどんなに素晴らしい場所だとしても、あの場所、この人はいないから。

「ええ。あたしのお気に入りになったの。それと、たぶんリリックも」

 絵本のページを捲る度、ゆらゆらと揺れる尻尾が視界をくすぐる。隣に座った傑作くんに絵本を傾けて、一緒に人混みの中に消えていく、女の子の背中を追った。ねこの森には帰れない。あたしの幸せは、ここにある。