微睡みの間

 人には誰しも、忘れられない恋が二つあると言う。一つ目は初恋、そして二つ目は、人生の中でした、最後の恋。
 とは言っても、あたしの初恋の記憶は曖昧だ。あれは確か幼稚園の時、同い年の子の中で、一番足が速い男の子だった。一丁前に手作りチョコを作って、バレンタインに渡したりもしたけれど、あれを初恋だというのには、あまりに幼すぎた。第一、相手の名前や、どんな顔をしていたかさえ覚えていないのだ。アルバムを見ればわかるかもしれないけど、そこまでしてまで確かめる気にはなれない。
 人生の中で、忘れられない初めての恋。それを初恋だというのなら、あたしの初恋は、中学生の時になる。
 あたしとその恋の出会いは、下手な恋愛マンガにあるような、使い古されたシチュエーションだった。雨の中、下駄箱途方に暮れていたあたしに差し出された、一本の地味な青色の傘。廊下の端と端の、校舎の中の淡い遠距離恋愛が始まった瞬間だった。幼稚園時代の恋とは比べものにならない。手を繋いで一緒に歩いたこともあったし、大人の真似をして、触れるだけのキスをしたことだってある。
 でも、それも終わった恋の話。あれだけ好きだったのに、今じゃ彼が、どこで何をしてるかすらわからない。クラスが違うという程良い距離で燃え上がっていたあたしたちの恋は、高校が違うという、ありふれた遠距離にすら耐えられなかった。
 あれから数年。おとぎ話のような恋に憧れていたあたしは、未だに王子様が迎えに来てくれることを信じながら、ベッドの上で甘い息を吐く。あたしの身体に覆い被さる大きな影は、王子様というにはあまりに間抜け過ぎる容姿で、唇が肌に触れる度に、もじゃもじゃ頭が頬を擽った。初めは煩わしいと感じていた感触も、慣れれば心地の良いものになる。他の人では決して味わえない行為の甘さを抱きしめるように、ふわふわと揺れる髪を、両腕に包み込んだ。胸の上で、大きな丸い瞳が、あたしの顔を上目遣いに見つめる。他の男が行為の時にどんな表情をするかは知らないけれど、あたしを抱いてる時の傑作くんは、どこか幼い顔をしているような気がした。真剣な顔で、壊れ物に触れるかのようにあたしの身体を抱くのに、あたしを貫く瞳は、母犬を呼ぶ子犬のように、泣き声を耐えるように潤んでいた。

「傑作くん。今日は、このままあたしの部屋で眠るんでしょう?」

 二回目の行為を終えて、息を整えるように寝転がっていた傑作くんに、ペットボトルに入った水を飲みながら問いかけた。声を受けた傑作くんは、額に浮かんだ汗を拭いながら、こちらに身体を向けるように寝返りを打つ。シーツがその動きに引き寄せられて、あたしの上半身まで露わになってしまった。赤い痕の残る胸を片手で隠しながら、腰の下で皺を作るシーツを指先で摘まむ。

「うーん。どうしようかな。もくじぃも明日には帰ってきちゃうし、いくら公認とは言っても、あからさまにこんな姿を見られちゃうと、ちょっと気まずいし」
「もくじぃが帰ってくる前に起きればいいでしょ?ここまでしておいて、あたしから離れて眠る気?」

 頬を膨らませたあたしに、傑作くんが短い笑い声を漏らす。お互いの身体を弄くりあった、熱い行為の後とは思えないほど爽やかな仕草で、あたしの頭を撫でた。優しい笑顔に、今度はあたしが、子犬のような表情を傑作くんに向けてしまう。
 そういえば、傑作くんの初恋の相手は、一体どんな人だったんだろう。前に一度だけ、高校生時代の傑作くんの、恋の話を聞いたことがあったけれど、あの時は他に人もいたし、傑作くんもあまりに淡々とそんな話をするものだから、深く聞き直すことが出来なかった。あたしと出会う前の、まだ高校生だった傑作くんが、一緒に白い花を見に行った女の子。どんな顔をして、どんな性格をしていたんだろう。手を繋いだり、キスをしたこともあったのだろうか。

「しおりちゃん?何考えてるの?」

 シーツを指先で摘まんだまま、引き上げもせずに固まっていたあたしを不思議がるように、傑作くんが身体を起こした。鎖骨の下に、行為の途中であたしが付けた、薄い印が残っている。あんなに薄いんじゃ、一週間もせずに、消えてしまいそうだ。それが気に食わなくて、胸が丸見えになるのも憚らずに、マットレスに両手を付いて、唇を傑作くんの鎖骨に近づける。

「傑作くんがあたしの初めての相手で、良かったなぁって。それと、傑作くんの初めてがあたしで、本当に良かったなぁって」

 吸い付くだけじゃ飽き足らず、前歯を立てて鎖骨の下に噛みついた。うっと低い声が聞こえたのと同時に、痛みを和らげるように唾液で消毒をする。
 三十を過ぎて経験がないなんて、と、付き合いたての頃は思ったりもした。けれど、今になって考え直す。例え終わった恋だとしても、傑作くんがさっきまであたしにしていたように、誰かの胸に口付けながら、甘えた子犬のような視線を向けていたことがあったなら、あたしは嫉妬で狂ってしまいそうだ。傑作くんのあんな顔を見るのも、優しい口付けを受けるのも、世界中で、あたし一人で構わない。

「あたし、傑作くん以外とこんなこと、絶対に出来ないよ」
「そりゃあ、出来るって言われても困っちゃうよ。しおりちゃんは、ぼくの彼女なんだから」

 食欲意外の欲には興味がないと思っていた傑作くんの腕が、裸のままのあたしの腰を抱く。あたしの話に独占欲でも擽られたのか、普段ではなかなか経験の出来ない、深いキスが降り注いだ。唾液が口から零れているのに、傑作くんはそれを拭わせてはくれない。酸素を求めて胸を叩くと、大きな水音を立てて、唇が離れた。喘ぐように呼吸を繰り返したまま、傑作くんの胸にしなだれかかる。

「心配しなくても大丈夫よ。あたし、これが最後の恋だと思ってるから」
「最後の恋?」
「そう。人生のうちで最後にする恋。一生忘れられない、自分史上最高の恋」

 言いながら、傑作くんが自分の部屋に戻ってしまわぬよう、抱きつきながらシーツに潜り込んだ。心地良い疲労感は、すぐにあたしを睡眠へと誘うだろう。目が覚めれば、あたしと傑作くんの、新しい一日が始まる。頬に触れるもじゃもじゃ頭の感触に微笑んで、あたしの名前を呼ぶ傑作くんに、「大好き」と囁いた。