鍵色の恋

 スポットライトの消えたステージを見つめて、大きなため息をつく。会場には、まださっきまでの熱気がこもっていて、立っているだけで汗を掻いてしまいそうだ。周りにいる人たちは、もう辺りも明るくなったというのに、興奮冷めやらない様子で、ステージにカメラを向けて、好き放題に写真を撮っていた。声の主をなくしたマイクスタンドが、ライブの余韻を反響させるように、一人で突っ立っている。

「今日のライブも超良かった~!!やっぱり生は最高だよね!」

 口々に褒め言葉や感想を述べる声の人混みをくぐり抜けて、流れとは反対の場所にある、地味な扉の前に立った。“関係者以外立ち入り禁止”と書いてある看板の横に立つ警備員に、あらかじめ貰っていた証明書を見せる。頷きながら開けてもらった扉の向こうは、ライブ終わりとは思えないほど閑散としていた。皆、まだステージ裏にいるのだろうか。重たい扉の向こうから、大勢の観客たちの声が聞こえてくる。白塗りの廊下と壁に、自分がさっきまであの人混みの中にいたのが、嘘のように感じた。テレビの映像でも見ているような、そんな一歩引いた距離を感じる。
 額に掻いていた汗を拭って、メイクを直すために近くにあった化粧室へと入った。メイクポーチを取り出しながら、お気に入りの赤いリボンも鞄の底から引っ張り出す。顔を隠すためにつけていた大きめのメガネを外すと、赤く腫れた目が鏡に映った。気づかないうちに、泣いていたのだろうか。ライブに感動したのは事実だし、涙が出るほど感動していてもおかしくはなかったのだけれど、気持ちは表情とは反対に、恐ろしいほど落ち着いていた。腫れた瞼のせいで上手く引けないアイラインを直しながら、傑作くんに貰った関係者専用の証明書を手に取る。

「これ、係員に見せたら、いつでも楽屋に来られるからさ。良かったら遊びに来てよ。――あ、でも。ライブ前は皆バタバタしてるから、終わってからの方が、ゆっくり話せるかな」

 一ヶ月前にしたデートの帰り道、笑顔で送られた傑作くんへの通行手形を、胸に押しつけるようにして抱きしめる。歌手デビューをして、こんなに大きなライブ会場で歌うようになった傑作くんは、今までよりもずっと眩しくなった。ステージの上で歌う傑作くんは、あたしの知っている傑作くんと同じはずなのに、手の届かないところまで飛んで行ってしまった気がして、無性に寂しくなる。広い客席を見つめて、大きく手を振る傑作くんも、それに合わせて歓声を上げる人たちも、全部があたしとは遠いところにいた。傑作くんは、もう、あたしの知っている傑作くんじゃない。道を歩けば見知らぬ人からも声をかけられるし、普通なら誰も興味をもたないような些細なことだって、気を遣わなければいけなくなる。

「ね、知ってる?傑作くんのカノジョ。傑作くんがデビュー前にバイトしてた、本屋の孫娘らしいよ!」
「うそ、マジ?今度見に行ってみようよ!!」

 会場に入る前、すれ違った女の子達から聞こえた会話が、脳裏を過ぎる。その言葉に、おざなりとは言えど、変装をしてきて良かったと、胸を撫で下ろした。
 招待席では遠いからと、一般客と同じ座席のチケットをねだったのは自分だ。けれど、そのせいで傑作くんのライブを楽しめなくなってしまったら、本末転倒だ。傑作くんのコアなファンの中には、傑作くんの軌跡を辿るように、実家やアルバイト先にまで訪れる人がいた。もちろんはんせい堂も例外ではなくて、傑作くんがCDデビューをしてから、はんせい堂の景気も、少しだけ良くなった。でも、それと傑作くんのプライベートまで注目されることは別問題だ。元々隠していたわけではないけれど、どこから情報を得たのか、あたしが傑作くんの彼女だという噂が流れてから、はんせい堂に訪れる人は、グンと多くなった。誰に何を言われようと、傑作くんと別れるつもりはない。それにしても、こうも毎日覗かれるように顔を見られると、あたしだって参ってしまう。もくじぃや五四九くんたちは、そんなあたしを心配してくれるけれど、傑作くんには、この話を一度もしたことがなかった。優しい傑作くんのことだ。自分のせいであたしに迷惑がかかっていると知ったら、歌手を辞めると言い出すかもしれない。せっかく叶った傑作くんの夢を、あたしのせいで潰すわけにはいかなかった。
 頭の上でリボンをしっかりと結んで、化粧室の扉を開けた。ステージ裏から帰ってきたのか、さっきよりも人通りが多くなっている。何人か見たことのある人にお辞儀をしながら、傑作くんの楽屋の扉を叩いた。数秒の間の後に、肩にタオルを掛けた傑作くんが、扉の隙間から顔を覗かせる。

「しおりちゃん!来てくれたんだ!!」

 シャワーを浴びた後なのだろうか。見慣れている傑作くんのもじゃもじゃ頭は、しんなりと潰れて、毛先から雫が垂れていた。その間抜けな姿と、いつもの優しい笑顔に安堵しながら、空いていた椅子に座る。傑作くんは、どこか忙しなさそうに、でも充実感を感じさせられる表情で、あたしの隣に座った。洗い終わったばかりのシャンプーの匂いが、ふわりと鼻に届く。

「楽しんでくれた?今日のライブ」
「うん。もう最高だったわ!最後に歌った新曲も、素敵なバラードだったし」
「あの曲ね。恋の詩なんて、昔は苦手だったんだけど……最近書けるようになってきたんだ。しおりちゃんに気に入ってもらえたんなら、嬉しいなぁ」

 髪をタオルで拭きながら話す傑作くんは、今までと変わらない、昔から見ている傑作くんその物だった。なのに、どうしてだろう。傑作くんが言葉を紡ぐ度に、胸が痛くなって、涙が出そうになった。このまま一思いに、傑作くんに抱きついてしまえれば楽になれるのに、いつ誰が入ってくるかわからない楽屋で、そんなことをするわけにはいかない。

「――ちゃん?聞いてる?しおりちゃん」
「えっ?ごめん、聞いてなかった。何?」
「だから、今日の打ち上げ。しおりちゃんも参加する?ぼくらのことも知ってる人も結構参加するから、遠慮はいらないんだけど」

 水気の多くなったタオルを放り投げて、傑作くんがあたしの顔を覗き込んだ。その顔に唇を噛みしめながら、俯いて首を横に振る。ライブの打ち上げになんか参加したら、傑作くんが、また遠い存在になってしまう。あたしの知らない人たちが、あたしの知らない傑作くんの姿を話すのは、もう耐えられなかった。

「ごめんね。嬉しいんだけど、明日も早いの。それに、ずっと立ってて、ちょっと疲れちゃった」
「そっか、残念だなぁ。じゃあ、駅まで送るよ」
「そんな!ただでさえ忙しいのに、それに、もし誰かに見られたら……」
「平気だって。少し遠めの駅に行けば、お客さんには会わないよ。それに、この辺なら抜け道も、たくさん知ってるから」

 そう言って立ち上がった傑作くんは、マネージャーさんに何かを言って、あたしの鞄を手に取った。伏し目がちに後を追うあたしの手を握って、裏口から外に出る。あれだけ暑くなっていた頬が、外気に晒されて、一気に冷たくなった。すぐ傍には大通りもあるのに、この場所は、虫の声が聞こえるくらいに静かだ。

「しおりちゃん、寒くない?」
「平気よ。涼しくて、丁度良いくらいだわ」

 抜け道を知っているというのは本当だったらしく、傑作くんが選ぶ道には、ほとんど人が歩いていなかった。代わりに街の灯も少なかったけれど、隣に傑作くんが歩いていると思うと、ぜんぜん怖くなかった。途切れ途切れに瞬く外灯の明かりが、羽の千切れた我を引き寄せる。

「しおりちゃん、なんだか元気がないね」
「そう?ライブではしゃぎすぎて、疲れちゃっただけよ」
「それだけじゃないよ。もっと、根本的に……何か、悩みでもあるんじゃないの?」

 突然何を言い出すのだろうと、傑作くんの顔を見上げる。でも、明かりの少ない夜の道では、その表情を上手く見ることが出来なかった。仕方なく声色だけで判断して、突かれた胸の内を隠すように、唇を尖らせる。

「そんなものないわよ。毎日が楽しくて、逆に不安なくらい」
「……しおりちゃんってさ、嘘つくとき、唇が尖る癖があるよね」
「うそ!?」
「ほら、やっぱり」

 乗せられてしまったと、片手で口元を押さえながら、降り注ぐ笑い声を睨みつける。怒った表情のあたしに気づいていないのか、傑作くんはあたしを引き寄せるように手の平に力を入れた。バランスが崩れたせいで、ヒールが地面を引っ掻いて、不格好な音を立てる。

「しおりちゃんは、今のぼくと付き合ってて、不安になることはある?」
「だから、そんなものないって言ってるでしょ」
「ぼくは、不安になるよ。しおりちゃんが、何だか遠くに行っちゃうような気がして」

 え、と声を出しながら、肩越しに傑作くんの顔を見上げる。暗闇に慣れてきた目が、傑作くんのシルエットを、宙に浮かび上がらせた。オレンジ色の光りを放つ外灯が、スポットライトのように傑作くんを照らし出す。

「CDデビューをして、大勢の人の前で歌うようになって、毎日充実してるんだけど、どこか物足りなくて。夢が叶って、CDが売れれば売れるほど、しおりちゃんやはんせい堂が、遠くなっていくような気がするんだ。“もう戻れない”って、誰かにずっと言われているような気がして」

 語るような傑作くんの声に、思わず足を止める。それに合わせて立ち止まった傑作くんの手を離して、握り拳を作った。喉の奥がヒリヒリして、息をするのが辛くなる。大声で叫びだしてしまいそうな胸の疼きに、震えた息を吐いた。

「違う。違う。遠くなっていくのは、離れていってるのは、傑作くんの方じゃない」
「しおりちゃん?」
「傑作くんの歌が有名になって、色んな人に聞いてもらえて、あたしも嬉しい。でも、有名になればなるほど、遠くに行って、あたしを置いて行っちゃうのは、傑作くんの方じゃない。大勢の人に見られて、大きなステージの上で歌ってる傑作くんは、あたしには似合わないよ。あたしは、傑作くんを見つめるファンの人にまで嫉妬しちゃうくらい、心が狭くてワガママなんだから」

 いつの間にか、頬を流れていた涙が、コンクリートに染みを作る。せっかく引いたアイラインが、手の甲で擦ったせいで、ぐしゃぐしゃに千切れていた。しゃっくりを繰り返すあたしの肩に、温かい手の平が乗る。視線を合わせるように曲げられた膝に目を落とすと、怒ったような、低い声が耳に届いた。

「しおりちゃんがぼくに似合わないなんて、そんなの誰が決めたんだよ」
「あたしに決まってるじゃない。人気歌手の傑作くんと、小さな古本屋の孫娘。釣り合うはずがないわ」
「そんなのしおりちゃんが周りを気にして、勝手に決めたことだろ。ぼくは、しおりちゃんがいい。釣り合うか釣り合わないかなんて、そんなのどうだっていいんだよ」

 傑作くんが膝を直して、そのままあたしを抱きしめた。薄いシャツの向こうから、シャンプーによく似た、甘い香りがしてくる。窒息しそうなほど強く抱きしめられて、ここが外だということを、一瞬だけ忘れてしまった。パチパチと瞬く外灯は、あたしたちを照らしてはくれない。

「ねぇ、しおりちゃん。本当は辛いんだろ?毎日のように、ぼくのファンがはんせい堂にやってきて」
「――!!どうしてそのこと……」
「双子に聞いたよ。どうしてぼくのせいで起きたことなのに、一番にぼくに言ってくれないの?ぼくってそんなに頼りない?」
「そんな、こんなことになっちゃったのは、傑作くんのせいじゃないし、第一傑作くんの迷惑になるわけには……」
「しおりちゃんが困ってることが、ぼくの迷惑になるはずがないだろ!むしろ、黙って我慢されてる方が、よっぽどぼくには辛いよ。しおりちゃんがぼくを支えてくれているように、ぼくだってしおりちゃんを支えてあげたい。そのために、こうして恋人として、付き合ってるんだから――」

 傑作くんが身体を離して、再びあたしと目を合わせた。包むように頬を撫でられて、涙の跡を拭われる。しがみつくように、傑作くんのシャツを掴んだ。膝が震えて、地面に崩れてしまいそうだった。

「ねぇ、傑作くん。あたし、傑作くんの彼女でいていいの?」
「当たり前だろ。ぼくは、しおりちゃんが好きなんだから」
「どんなに大勢の人に囲まれても、あたしの行けない、遠い世界に行っちゃっても、あたしを好きでいてくれる?ずっと、傍にいてくれる?」
「うん。絶対。約束するよ」

 唇がほんのり温かくなって、頭を優しく撫でられる。子供のように泣きじゃくって、傑作くんの胸に顔を埋めた。誰かに見られたらどうしようとか、あんまり遅いと傑作くんに迷惑がかかるとか、考えなきゃいけないことはたくさんあるのに、涙が止まってくれなかった。傑作くんは何も言わずに、ただ黙ってあたしを抱きしめて、あやすように背中を叩いていた。外灯の明かりは当たらないままなのに、目の前がほんの少し明るくなる。

「しおりちゃん、もっと、ぼくを頼っていいんだよ。ケンカは苦手だし、頼りないかもしれないけれど、何があっても絶対にしおりちゃんを守るから」
「うん」
「だから、独りで抱え込まないで。しおりちゃんが笑っていないと、ぼくも幸せにはなれないよ」
「うん、うん」

 遠くの方で、トラックがクラクションを鳴らした音がする。人混みから切り離された、二人だけの世界で、傑作くんと抱き合う。涼しいと思っていた夜風が、だんだんに身体を冷やしてきた。それを悟ったのか、傑作くんが身体を離して、あたしを庇うように、手の平を差し出した。その手を握りしめて、駅までの道のりを歩く。

「……やっぱり、帰るのやめようかなぁ。傑作くんと、もう少し一緒にいたい」
「ぼくも。打ち上げも大切だけど、今日はしおりちゃんと過ごしたい気分。考えてみれば、最後に会ったの、チケットを渡した一ヶ月前だもんね」

 傑作くんが歩きながら、器用にあたしにキスをする。その口付けを受け止めて、傑作くんの目を見つめ返した。

「……ぼくの家。合い鍵持って来てるよね?一時間ぐらいで抜け出してくるから、待っててくれないかな?」
「良いけど、主役がそれで大丈夫なの?」
「平気だよ。元々お酒は弱いし、酔った振りをして、上手に帰ってくるよ」

 しばらく会わないうちに、随分図太くなってしまったなと感じながら、片目を瞑る傑作くんに、笑顔で頷く。大通りに出て、駅の看板が見えてきたのを確認した後、名残惜しさを覚えながら、傑作くんと手を離した。

「それじゃ、しおりちゃん。また後で」
「うん、待ってるわ」

 ひらりと手を振る傑作くんを見送って、地下鉄の階段を駆け下りた。さっきまでの不安が嘘のように、心が弾んで足が軽やかになる。もう、誰に何を言われても、気にならなかった。改札をくぐって、傑作くんに短いメールを打つ。たった五文字の短いメールに、傑作くんは、いつ気づくのだろうか。ホームに立つ人達に混じりながら、傑作くん行きの、あたしだけの通行手形を見つめる。傑作くんの部屋で過ごす夜を想像しながら、明るい光の中に、そっと足を踏み出した。