葉桜と栞

 ページを捲る指先に、細い影が重なる。まだ四月だというのに、ここのところ、すっかり初夏の陽気が続いていた。暑さに花を散らせ、葉桜となった枝が、文句治の上ではらはらと風に音を靡かせる。日差しは見上げることが出来ないくらいに威勢が良かったが、生い茂った葉桜のおかげで、文句治の座るベンチには、丁度良い日陰が出来ていた。
このところ、街も気候も、随分変わってしまった。
 活字を目の中に吸い込みながら、文句治はそんなことを考える。文句治の生まれ育った福袋市は、首都である東京から少し離れた、静かな街だった。道路沿いには程良い緑が顔を覗かせ、商店街に行けば、見慣れた面々が、文句治の名を呼びながら、笑顔で挨拶を返してくる。特別目立った名物もないが、穏やかなこの街が、文句治は大好きだった。
 しかし、高度経済成長期と呼ばれる時代の中で、福袋市も、その姿を変えようとしていた。子どもの頃にセミ取りに行った森は、ビルディングの建設で切り開かれ、以前は夕方になると家まで配達をしてくれた氷売りのおじさんも、冷蔵庫の登場と共に、次第に姿を見かけなくなった。
 変わらないのは、本の中の物語だけ。
 何度読んだかわからない、色褪せた表紙を指の腹で撫でて、文句治はまたページを捲った。異国から流れてきたロックが好きで、貯金を叩いてギターまで買った文句治だったが、近年の日本の変わりようには、眉を寄せるものがあった。このままでは、福袋市もいずれ、人がいなくなってしまうだろう。どこにも代わりのない、福袋市だからこそ見られた風景が、流行に乗せられた土地開発のせいで、どこにでもある、無機質な街に変わろうとしている。
 ふぅとため息を吐いて、文句治は活字から目を逸らした。大好きなはずの読書も、今日は気分が乗らない。目が活字の上を滑って、意味を認識するまえに、ふわふわと浮かんで紙の上に戻ってしまう。
 仕方なしに、文句治は鞄から一枚の栞を取り出して、読みかけのページに挟もうとした。そのタイミングを見計らったかのように、穏やかだった風が表情を変え、軽く摘まんでいた栞を宙に舞い上がらせる。慌てて文句治が顔を上げると、葉桜の枝が笑い声でも上げるかのようにざわざわと揺れ、栞と一緒に葉を風に散らせた。立ち上がった文句治の顔に、ぎらぎらとした太陽の光が照りつける。その日差しに目をやられ、手の平で日を遮った時に、ふいに目の前に、大きな白い日傘が広がった。縁に付いたレースを靡かせながら、傘の下から伸びた細い指先が、白鳥の羽でも掴むかのように、栞を器用に掴まえる。
 あれは――――
 上半身を隠すほどの大きな日傘と、その下から伸びる真っ白なワンピースに、文句治の記憶が重なった。あれは、学生時代に想いを寄せた、一枚の絵だ。商店街の骨董品屋で、初めてあの絵に出会ってから、文句治はその絵に描かれた少女のことが、気になって仕方がなかった。無名の画家の作品だからと安く譲ってもらったその絵を見ながら、空想の世界に飛んで行ったこともある。

「パラソルちゃん……」

 絵の中の少女に付けた名前を呼ぶと、日傘の中に隠れていた顔が、ゆっくりと文句治を振り返った。映画の中のワンシーンのように、日傘の女性に合わせて、うるさかった風の音が、ぴたりと止む。親指と一差し指で栞を摘まみ、文句治の顔が見えるように日傘を傾けた女は、そのままにこりと微笑んだ。顎まで伸びた黒い髪が、弧を描いた唇の横で、柔らかく揺れている。髪の上でカチューシャのように巻かれたリボンは、雪の中に咲く薔薇のように輝いていた。よく見ると、微笑みを浮かべたままの唇にも、同じような赤い口紅が塗ってある。

「これ、貴方の?」

 名前を呼んだまま立ち竦んでいた文句治は、その声を聞いて、はっと我に返った。弾かれたように首を縦に振って、急いで女にお礼を言う。女はそんな文句治の様子を面白がるように笑いながら、絹の上でも歩くような動作で、文句治に近づいてきた。摘まんでいた栞を文句治に手渡すと、もう一度日傘を傾ける。

「何の本を読んでいらしたの?」
「宮沢賢治です。銀河鉄道の夜」
「あら、奇遇ね。私もその話、好きなの。宮沢賢治は、よくお読みに?」
「ええ。実家が古本屋を営んでまして。子どもの頃から、全集を読み漁っていたんです」

 文句治の言葉を聞いて、女は感心したように頷いた。初めて会ったというのに、臆することなく話しかけてくる女に、文句治は頬が赤くなるのを感じた。顔の見えない、空想の中でしか会えないと思っていたパラソルちゃんが、今、目の前で自分を見つめている。そう錯覚してしまうほど、日傘の女性は、文句治の思い描いていたパラソルちゃんにそっくりだった。女の細い指先が、イタズラでもするように、傘の柄をくるくると回す。

「このところ、日差しが熱くって。“暑い”じゃなくて、“熱い”。コンクリートの地面の上で、全身焼かれているような気分になりません?まだ四月だっていうのに、桜もこんなに散っちゃって。せっかく久しぶりに外に出られたのに、桜が見られないなんて残念だわ」

 女は日傘の間から太陽を見上げて、恨めしそうに唇を尖らせた。崩れた表情だというのに、その顔は、一枚の絵画のように整って見えた。背丈はもくじとそう変わらないのに、表情のひとつひとつが、見た目よりも幼く見える。

「お花見は、しなかったんですか」
「昔から身体が弱くて……。なかなか外に出られなかったんです。で、今日はお家の人の目を盗んで、こっそり出掛けてみたのに、桜を見てみたらこの有様。私のお花見は、来年までお預けです」

 肩を竦めて首を傾げる動作に、今度は文句治が笑いをこぼした。絵の中から文句治に会いに来たのだとしたら、あまりにも饒舌すぎる。容姿に似合わない子どもっぽさを愛しく思いながら、文句治はベンチを振り返った。風のせいで、葉が何枚か座席に乗っているが、まだ日陰に包まれている。

「立ち話も何ですから、座りませんか。あのベンチ、丁度木陰になっていて、涼しいんです」
「じゃあ、お言葉に甘えて」

 文句治は鞄からハンカチを取り出すと、葉を地面に落としながら、女の座る部分にそっと敷いた。女が日傘を畳み、その上に腰かけたのを見て、自分も腰を下ろす。さっきまで他人同士だったというのに、同じベンチに座っているなんて、可笑しな話だ。でも、気分はひとりで読書をしていた時より、ずっと心地が良い。黙ったまま、そんなことを考えていた文句治の横で、女が静かに口を開いた。

「知らなかった。葉桜の下って、こんなに涼しいんですね」
「ええ。天気が良いせいか、日が見えないほどに生い茂って……こんな日には、ありがたいですな」
「私、桜は花が咲いてないと、意味のないものだと思ってました。でも、そんなの人間の勝手ですよね。花が咲いてても咲いていなくても、桜は立派に生きている」

 女の声に返事をするように、枝がまた風に揺れる。はらはらと落ちてきた葉を掴むと、女は恋人から貰った指輪でも見つめるかのように、両手でそれを包んで胸に押し当てた。作られたような動作に、文句治の目が女に釘付けになる。

「さっきの話。貴方は、銀河鉄道にお乗りになったことがある?」
「わたしですか?まさか。あんなに素敵な通行権を持ったことはないし、第一、わたしはまだ生きている」

 文句治の返答を受けて、女は黙って文句治を見つめ返した。それからあの幼さを宿した笑みを浮かべて、くすくすと口元に手を当てる。

「そりゃあそうですよ。でもね、私は乗ったことがあります」
「え?」
「夢の中で、ね。普段は見上げている星空を見下ろすのは、もう最高でしたよ」

 女の笑い顔を見て、文句治はずるいと思った。夢の中の話なら、それこそ何だってアリだろう。けれど、楽しそうな女の表情を見ていると、文句治の中に芽生えていた不満は、すぐに枯れてしまった。そして、失笑のような笑みを浮かべながら、銀河鉄道に乗っている、自分と女の姿を想像してみた。夜の星空の中で、日の光なんてちっとも当たらないのに、日傘を差したままの女は、文句治を真っ直ぐに見つめて、あの文句治を虜にした穏やかな笑みを浮かべている。

「桜は散ってしまいましたけど」

 文句治は女の動作を真似て、落ちてきた葉を手の平に乗せた。緑の色が、肌色に吸い込まれるように、手の中で揺れている。そういえば、ジョバンニが持っていたあの素敵な切符も、緑色の紙だった。

「お花見は、まだ出来ますよ。この季節だったら、ツツジがおすすめです。今度一緒にどうですか?星空には敵わないかもしれませんが、きっと綺麗ですよ」

 文句治の問いかけに、女が笑顔を浮かべたまま頷いた。日傘に隠されていた赤いリボンに、触れてみたくなる。そんな衝動を抑えながら、文句治は葉桜の隙間に見える、煌々とした日の光を見上げた。




「もくじぃー!!いつまでお昼寝してるの!」

 耳元で聞こえる甲高い声に、文句治は目を覚ました。夕陽の差し込む古書部には、相変わらず閑古鳥が鳴いている。本の整理中にうたた寝をしてしまったのか、文句治の周りには、仕入れたばかりの本が散乱していた。その中に、夢の中の彼女と語り合ったあの本を見つけて、文句治は少しだけ、視線を瞼に近づける。

「いくら古書部が暇だからってね、こーんなに寝られたら、あたしも黙って見ていられないわよ!傑作くんもリリックを連れて物干し台から帰ってこないし、はんせい堂で働いてるのは、相変わらずあたし一人だけ……って、聞いてるの?もくじぃ!!」

 パラソルちゃんの面影を残す孫娘を横目で見ながら、文句治は黙ってその本のページを開いた。髪型と赤いリボンはそっくりだが、やっぱりパラソルちゃんと孫娘は違う。あの人はこんなにやかましくなかったし、いつだって白い服を着て、大きな日傘を差していた。もう、随分前に銀河鉄道に乗って星空の旅へ行ってしまったが、あの穏やかな笑みを、忘れることはない。

「なぁ、しおり。本当の幸せって、一体何だと思う?」

 最終章のページを捲りながら、文句治は問いかける。しおりの機嫌を気にしない文句治の質問に、しおりは間抜けた声を上げながらも、そのうち顎に手を当てて、真剣に考えだした。そうしてしばらくすると、パラソルちゃんのような穏やかな笑みを浮かべて、視線をもくじぃに向けた。

「素敵な人との結婚!って言いたいところだけど……あたし、今も充分幸せよ。なんだかんだネット部の仕事も楽しいし、もくじぃや傑作くん、リリックや五四九くんたちだっているし――それが本当の幸せかどうかはわからないけれど、あたしは、今の暮らし、結構好きなの」

 自信満々な孫の答えを聞いて、文句治は目を見開いた。そして、涙を堪えるように笑顔を浮かべて、そっと本の表紙を閉じた。色褪せた表紙に、葉桜と共に宙に舞った栞が思い浮かぶ。あの栞がなければ、今の文句治の幸せは、どこにもなかった。

――ねぇ、文句治さん。文句治さんは本当の幸せって、何だと思う?
――そんな、いきなり難しいことを聞かれても……
――難しくなんてないわ。私、今が一番幸せ。文句治さんと出会ってから、いろんな景色を見ることが出来た。文句治さんと出会って、恋に落ちて、結婚をして……あの、栞を拾った日から私、毎日が幸せで仕方ないの。だからね、例え、一人で銀河鉄道に乗ることになっても、何も怖くないわ。だって、文句治さんも、きっといつか、私を追って来てくれるでしょう?文句治さんが乗ってくるまで私、ずっと銀河鉄道の中で、待ち続けるわ。そしていつか、一緒に星空を眺めましょう?夢の中で見たあの景色、文句治さんにも見せてあげたいの。

 彼女は今も、自分を待ち続けているのだろうか。代わる代わる訪れる乗客たちと話しながら、鼠色の切符を懐へしまって、白い大きな日傘を、イタズラでもするようにくるくると回しているのだろうか。
 閉じた本を棚にしまって、文句治はしおりの頭を優しく撫でた。思いがけない動作に呆気にとられているしおりに笑いかけて、玄関から外に出る。物干し台から、傑作のギターの音が聞こえてきた、それに混じって、リリックの鳴き声も聞こえてくる。

「長い間待たせて悪いけれど、もう少し、我慢してくれないかなぁ。しおりの言うように、今の暮らし、わたしも結構好きなんだ」

 夕焼けに混じった星空に向かって、文句治は小さく呟いた。そんな文句治に笑いかけるように、燦々と光る南十字星の横を、流れ星が一筋落ちていった。