瞼を綴じておやすみなさい

 何かを抱きしめていないと、眠れない夜がある。いつもは平気な暗闇が、途端に怖くなってしまって、寝やすいはずの静粛が、あたしを追い詰めてくる気がする。
 布団を頭まで被って、枕を思いきり抱きしめてみるけれど、冴えてしまった目は、なかなか眠りにつかない。何がこんなに胸を騒がせているのか、自分でも答えが見つからないから、ベッドの上に転がったまま、じっとしているしかない。
 夜中の静けさは、普段は聞こえない心音を、耳元に集中させる。脈が打つ度に、頭がぴくりと動いて、あたしが生きていることを実感させた。カーテンの向こうで、小さな明かりが、すうっと遠くへ消えていく。どんなに世界が闇に包まれても、どこかで誰かが起きている。それなのに、どうしてこんなに、独りぼっちの気分になるんだろう。扉を開ければ、もくじぃや傑作くんが、近くにいるのに。
 傑作くん。
 何かを抱きしめていないと、眠れない夜がある。それも、ぬいぐるみや枕じゃ、物足りない夜が。
 ベッドから足を下ろすと、床が鈍い音を立てて軋んだ。時計を見ると、とっくに天辺を過ぎている。こんな時間に部屋を訪ねるなんて、迷惑以外の何物でもないだろう。いい年をした大人が、寂しくて眠れないなんて、言えるはずがない。
 カチコチと、秒針が時を刻む。夜はあたしを置いてけぼりにして、朝を連れてくる。明日も朝が早くて、仕事だってたくさんあるのに、この調子じゃあ、いつまで経っても眠れなさそうだ。もう一度枕を抱きしめてみるけれど、体が前に曲がるだけで、眠気は生まれなかった。静かな息の音が、暗い部屋に落ちていく。
 ギィ……、キィ……。
 目を閉じて頭を枕にうずめていると、扉の向こうから、床が軋む音がした。忍び足で歩くようなその音に、薄気味悪さを覚えながら、扉に近づく。無意味だとわかっていながら、枕を盾にして、ドアノブに手を掛けた。泥棒だとしたら、警察を呼ばなければいけない。
 キキ……ッ。
 甲高い音を立てて開いた扉に、忍び足の主がこちらを振り向く。暗闇で目の合ったもじゃもじゃ頭は、ぎょっとした顔をして、あたしを見ていた。唇が横長に伸びて、肩が上に釣り上がっている。

「……傑作くん?」
「ああ、しおりちゃん。ごめんね、起こしちゃったかな」

 傑作くんは小声で返事をしながら、あたしの方へ近づいてきた。手には、ホットミルクが入ったマグカップが握られていて、夜中には似合わない、落ち着いた香りを漂わせてくる。

「静かに歩いたつもりだったんだけど……。うるさかったかな」
「ううん。あたし、その前から起きてたの。何だか眠れなくって」

 目の前にいる傑作くんに、独りぼっちでいた気分が、薄まっていった。枕を部屋に放り投げて、傑作くんを部屋に近づける。ホットミルクを持った顔が、不思議そうに傾いた。

「傑作くんも、眠れなかったの?」
「ううん。もくじぃに借りた本を読んでたら、こんな時間になっちゃって。それで、喉が渇いたから、ホットミルクを作ってきたんだ」
「そう……。でも、良かった。傑作くんに会えて」

 心細さを埋めるために、傑作くんの腰に抱きついた。寂しくて眠れない情けない大人は、あたしだけだったけれど、こんな時間に起きているのは、あたしだけじゃない。
 抱きついてきたあたしに引き寄せられるように、傑作くんが部屋の扉を閉めた。マグカップが傾かないように注意しながら、あたしの頭を撫でてくれる。理由も言わずに傑作くんの時間を奪っているのに、怒らないところが、傑作くんらしい。どこまでも、優しい人だ。

「しおりちゃん、何かあったの?」
「何も、何もないの。それなのに、眠れなくって。明日も早いのに、どうしたらいいのかしら」

 俯くあたしの背中を、傑作くんは何も言わずに優しく叩いた。ベッドに座るように促されて、渋々体を離す。横に座った傑作くんが、あたしを落ち着かせるように、ホットミルクを差しだした。

「そういうときには、これ。体が温まると、自然と眠くなるよ」
「でも、これは傑作くんが……」
「ぼくなら大丈夫。さっき我慢できずに、台所で一杯飲んできたから」

 優しい笑顔に甘えて、白いミルクを、一口呑み込んだ。温かい液体が、喉を通って、体に染みこんでいく感触がする。それでも、空しさが消えることはなくて、そのままマグカップを傑作くんに返した。せっかくの優しさなのに、応えることができない。

「ごめんなさい。やっぱり、これは傑作くんが飲んで?」
「うん……。じゃあ、どうしようか。羊を数えると眠くなるって言うけれど、逆に目が冴えちゃうよね、アレ」

 ホットミルクを飲み干して、自分のことのように真剣に考えてくれる傑作くんに、思いきり抱きつく。ホットミルクも、羊もいらない。あたしが今欲しいのは、この感触だ。少し固い背中と、パジャマの向こうから感じる温かさ。他のどんな物よりも、あたしの寂しさを埋めてくれる。

「しおりちゃん?」
「ごめんなさい、傑作くん。迷惑だってわかってるけど、傍にいてほしいの。今だけでいいから、わがままを言わせて」

 押しつけた耳に、傑作くんの鼓動が届く。自分の心臓の音は聞き辛いのに、傑作くんの心音は心地良いのは、どうしてだろう。胸元に巣くっていた騒がしさが、傑作くんの心音に吸い込まれるように、静かになっていく。あんなに耳障りだった自分の呼吸の音も、気にならなくなった。体の中に、穏やかさが戻ってくる。

「迷惑なんかじゃないよ。しおりちゃんが落ち着くまで、いつまでもこうしていて」

 赤子をあやすように、傑作くんがあたしの背中を撫でる。これじゃあ傑作くんの彼女と言うより、妹みたいだ。いつだってあたしが頼ってばかり。情けなさに、涙が込み上げてくる。

「あたしって、ほんとダメね。いい年して、ひとりで眠れないなんて」
「そんなことないよ。ぼくだって、たまにそういう日があるよ」
「でも、傑作くんは、誰にも迷惑をかけてないじゃない。あたしはいっつも、傑作くんに頼ってばかり。いい加減、強くならなくちゃ」

 これ以上傑作くんの時間を盗まないために、温かい体から腕を離す。その動きを傑作くんが制して、膝の上に乗せるように、あたしの体を抱き上げた。ベッドに体が沈んで、上から布団を被せられる。目の前には、傑作くんの、優しい顔があった。

「傑作くん……?」
「今日は、このまましおりちゃんと一緒に寝ようと思って。ダメかな?」

 傑作くんがあたしを抱きしめて、長い息を吐く。それが、ため息ではないのが、なぜかわかった。額に傑作くんの顎が当たって、少しだけ痛い。唇の動きが、空気を伝って、あたしの耳に響いた。

「しおりちゃん、あんまり自分を責めないでよ。ぼくは何にも気にしてないから」
「でも、やっぱりこのままじゃいけないわ。今のあたし、何も良いところがないから」
「そんなことないよ。しおりちゃんの良いところ、ぼくはたくさん知ってるよ」

 傑作くんが下に動いて、あたしと視線を合わせた。暗闇で、傑作くんの目だけが、明るく光っている。黒目がやわらかく細まって、あたしに近づいてきた。

「だから、今日はおやすみ。目を閉じても、ぼくはここにいるから。大丈夫だよ」

 額がくっついて、傑作くんが目を閉じる。その動きに合わせて、あたしも瞼を下ろした。傑作くんの背中に腕を回すと、素直に体を寄せてくれる。二人分の心音が、布団の中で重なった。静かな夜が、途端に賑やかになる。あたしを追い詰めていた静粛が、どこかへ消えていった。

「傑作くん、ありがとう」

 何かを抱きしめていないと、眠れない夜があった。胸騒ぎの答えは、理由のわからない、寂しさだったのかもしれない。
 重なる心音を数えながら、傑作くんの温もりに顔を寄せる。こんな時間に起きているのも、生きているのも、あたしだけじゃない。それが嬉しくて、さっきよりも自然に眠気が襲ってきた。夢へと意識を手放す前に、もう一度だけ、傑作くんの心音を数える。
 夜が明けて、目が覚めたら、こんな寂しさが嘘になるくらい、元気になっているのだろうか。そして、隣で寝ている傑作くんに、照れ笑いを返すのだろうか。
 目を閉じても、傑作くんが傍にいる感触がする。夜の不安よりも、明日の希望に、目を向けることができる。傑作くんは、あたしの精神安定剤だ。傑作くんが傍に居さえすれば、あたしはどんなことだって、乗り越えられる気がする。

「おやすみ、しおりちゃん」

 眠りに落ちる瞬間、傑作くんの優しい声が、あたしの名前を呼んだ。その声に微笑みを返して、温かい腕の中で、そっと意識を手放した。