期間限定彼氏

「ねぇ、しおりちゃん。ほんとにこのまま行くの?」
「しつこいなぁ。さっきから何度も行くって言ってるでしょう?何回同じことを聞くのよ」
「だって、やっぱりこういうのはよくないよ。正直に言って、謝ったらどうかな?」

 渋々と、足を引きずるように歩いている傑作くんは、今にもはんせい堂に帰りたそうだった。いつも来ているエプロンを脱いで、色のついたシャツとジーンズを着ている傑作くんは、まるで別人みたい。服を着替えただけでこう感じてしまうなんて、傑作くんは、普段どれだけお洒落に興味がないんだろう。
 だからって訳じゃないけれど、今日のあたしと傑作くんは、なんだかアンバランスだ。今日のために揃えたブランドの服に身を包んだあたしと、タンスの奥から引っ張り出したような服を着た傑作くん。端から見たら、その雰囲気の違いに、思わず振り返ってしまいそうだ。ただでさえこの身長差なのに、これ以上目立ちたくはなかった。

「もうっ!ここまで来たら行くしかないでしょ!いつまでも悩んでないで、少しはあたしをエスコートしてよ!」

 そう言って立ち止まったあたしの数歩後ろで、傑作くんが気まずそうに足を止める。その姿は、どこから見ても、今の状況を楽しんでいるようには見えなかった。あからさまにわかる傑作くんの気持ちに、イライラと空しさが募って泣きたくなる。

「元はと言えば、傑作くんがOKしたのがいけないのよ。嫌だったなら、はじめから断れば良かったじゃない」
「嫌じゃないよ。ただ、もう一度考えてみたら、これは、しおりちゃんのためにならないんじゃないかと思って。ぼくだけが悪く言われるならいいんだ。でも、このままでいたら、きっとしおりちゃんまで、悪い人になっちゃうよ」

 綺麗事を言いながら、爪先で地面を擦る傑作くんに眉が釣り上がる。優柔不断なのは知っていたけど、ここまで来て渋り出すとは思わなかった。やっぱり、あたしの人選ミスだったのだろうか。けれど、傑作くん以外に、こんなことを頼める人はいない。もくじぃを連れていく訳にはいかないし、五四九くんたちだと、余計にややこしいことになってしまう。それに、傑作くんが承諾しなければ、あたしはきっと、こんなことをしなかった。

「ねぇ、しおりちゃん。ちゃんと正直に言おうよ。ぼくに彼氏の振りを頼んだなんてバレたら……友達も怒ると思うよ?」

 正論過ぎる傑作くんの言葉に、何も言えずに唇を噛む。
 傑作くんは、何も知らないからそんなことを言えるんだ。既に結婚して、素敵なパートナーのいる友達の前で、彼氏すらいないあたしが、女としてどれだけ浮いてしまうのか、傑作くんは想像もしていないんだろう。嘘をつくのがいけないことだなんて、とっくにわかっている。けれど、見栄を張らずにはいられないんだ。あたしだって、女として幸せだってところを、友達に自慢したい。

「……傑作くんは、そんなにあたしの彼氏の振りをするのが嫌なの?」
「そうじゃないよ。友達に嘘をつくのがいけないって、ぼくは――」
「もう、いいっ!どうせあたしは独り身よ!彼氏もいないし、きっとこの先、結婚だってできないんだわ!傑作くんにはわからないのよ。みんなの中で、取り残されていくことが、どれだけ辛いのか。だから少しくらい、今日だけでいいから、夢を見させて欲しかったのに……」

 涙が溜まっていく目を見られないために、俯いて傑作くんに背を向けた。そのまま走って逃げ出したかったけれど、高いヒールが邪魔をして、上手く地面を蹴ることができない。不格好な走り方をするあたしは、足が遅いはずの傑作くんに、すぐに追いつかれてしまった。腕を掴まれて、そのまま何も言わずに動きを止められる。バッチリ決めたはずのアイメイクが、涙で崩れていった。

「しおりちゃん、泣いてるの?」
「…………」

 あたしの様子を伺うように曲げられた体に、背を向けるように顔を逸らす。自分が情けなくて、浅ましくて、消えてしまいたい気分だ。道行く人が、アンバランスなあたしたちを、不思議そうに見ながら通り過ぎていく。それが気に食わなくて、目頭を強く擦ったら、せっかくの付け睫毛が片方取れてしまった。もう、友達に会いに行くどころじゃない。

「しおりちゃん。どうしてぼくに、彼氏の振りを頼んだの?」
「……何度も言わせないでよ。結婚して、幸せな友達の前で、独り身なのが恥ずかしいからに決まってるじゃない」
「それだけ?だったら、ぼくじゃなくても良かったよね。五四九くんたちでも、ぼくの知らない男友達でも良かったはずだ。でも、もし彼氏の振りをするのが、ぼくじゃなきゃいけない理由があったの なら――今日のことも、考え直すんだけど」

 低くなっていく傑作くんの声に、俯いていた顔を少しだけ上げる。真剣な目に、心の奥を見透かされている気がした。心臓の音がうるさくなって、周りの音がよく聞こえなくなる。何か言いたいのに、唇が上手く動かなかった。

「あれ、しおり?こんなところで何してるの?待ち合わせの駅は、こっちだよ?」

 傑作くんに腕を掴まれたまま固まっていると、後ろから懐かしい友達の声がした。振り向こうとして、崩れていた自分の顔に気づく。どうしようかと慌てていると、後頭部が押されて、顔が目の前にあったシャツに貼り付いた。薄いシャツの向こうから、微かに傑作くんの匂いがする。不意を突かれた動作に目を見開いていると、頭の上から、傑作くんの声がした。

「ごめんね。しおりちゃん、ちょっと体調が悪いみたいなんだ。様子を見てるから、先に行っててくれるかな」
「あ……、もしかして、しおりの彼氏ですか?初めまして!――なんなら私、明日も暇なんで、今日会えなくても大丈夫ですよ?その代わり、しおり。明日は詳しく話を聞くから、覚悟しておいてね」

 弾んだような友達の声が遠ざかっていくのを聞きながら、傑作くんに抱き寄せられていることを、やっと理解する。こんな道の真ん中で、ただでさえ目立っている二人が抱き合っていたら、目立つどころか、いい見世物だ。メイクのことがなくても、しばらく顔を上げられそうにない。
 何も言わないあたしに痺れを切らしたのか、傑作くんが体を離して、あたしの肩に手を置いた。シャツに顔が当たっていた部分に、涙の染みと、落ちたアイシャドウの色が移っていた。それを見つめながら、傑作くんの言葉を反芻する。

「傑作くんを、彼氏の振りに選んだ理由、なんて――――」

 自分に問いかけるように落としていく言葉に、さっき嗅いだばかりの、傑作くんの香りを思い出した。顔が赤くなるくらい恥ずかしい行為だったけれど、嫌ではない。むしろ、心地よかった。まるで、ずっと前から、こうなることを望んでいたようだった。友達に見られて、本物の彼氏と誤解されたのだって、嫌じゃない。実物の二人は、アンバランスで、恋人の振りさえ叶わない仲なのに、あの瞬間だけは、甘い恋の空気に包まれていた。

「そんなの、わからないわよ。理由なんてない。でも、傑作くんじゃなきゃ嫌だったの。他の人になんて、端から頼む気はなかったわ」

 それは、傑作くんなら、断られないと思ったからなのか。それとも、傑作くん以外の人と、並んで歩きたくなかったからなのか。
 モヤモヤとぐるぐる回る思いは、答えを見つけることはできない。それでも、その返事に傑作くんは満足したのか、肩に置かれた手が離れて、代わりにハンカチを差し出された。それで涙を拭きながら、恐る恐る傑作くんを見上げる。

「うん。百点の回答じゃないけど、ギリギリ合格点かな。これなら、彼氏の振りをしても、大丈夫かも」
「……なによ、傑作くんのくせに、偉そうに」
「怒らないでよ。それにぼくは、彼氏の振りをするのを渋っていただけで、振りじゃなければ、いくらでも承諾したんだよ。無責任に期待だけさせるしおりちゃんの方が、今回は悪いと思うけどな」

 さらりと言われた台詞に、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で口を開けた。意味を確かめるために何度も心の中で繰り返したけれど、頭がそれを理解してくれない。代わりに、心臓がさっきよりもうるさくなって、チークがいらないくらい、頬が赤くなった。そんなあたしの手を握って、傑作くんが歩き出す。

「さ、はんせい堂に帰ろう。今日の約束はなくなっちゃったけれど、明日までの期間限定なんだから、今のうちに楽しんでおかないと」

 そう言う傑作くんの声が、いつもより高く感じるのは、あたしの気のせいではないだろう。明日までの限定された時間の中で、あたしはどうなってしまうんだろう。恋人同士の振りって、具体的には、何を想像していたんだっけ。

「――傑作くん、この契約期間って、いつまで延ばせるのかしら」
「そうだなあ。永遠って言いたいところだけど、いつまでも振りのままじゃ悲しいから、しおりちゃんが、自分の気持ちに気づくまでにしようかな」

 アンバランスな二人の空気が、甘い匂いを纏っていく。指先が絡まって、歩幅が自然と揃っていった。道行く人の視線も、いつの間にか気にならなくなった。意外とあたしたちは、お似合いなのかもしれない。

「でも、友達には誤解されちゃったわね。傑作くんに、あれだけ嘘はいけないって言われたのに」
「うん。だからこそ、ぼくは早めに、嘘じゃなくしてほしいんだけど」
「……そうね、考えておくわ」

 手を握り返して、並んだ姿に、この先の未来を想像してみた。驚くほどすんなりと、二人の生活が浮かんでくる。狐につままれたような展開に唇を尖らしながら、心の内は、晴れ晴れとして澄み渡っていた。あたしが自分の気持ちに気づくのは、そう遠くないのかもしれない。